ミクロとマクロ

 右手で右手を掴めないように、もっとも身近なものに決して接することができない事実には何か意味が潜んでいるのだろうか。もっとも身近なものこそが、じつはもっとも遠い存在かもしれない、という思いが湧いてくる。

 あるいは、自分の背中を自ら直接見ることができない現実。これこそが、生きながら人間が身近に引きずるもっとも深刻なジレンマのひとつかもしれない。なぜなら、人間は自らの背後で展開される世界を認識できないのだから――。振り返っても無駄だ。背後は常に視線の反対側に移動する。

 ところで、かつて宇宙論に関する書物を読んでいたら、宇宙の果てまで覗ける高性能の天体望遠鏡で観測すると、やがて宇宙を観測している自分の背中が見えてくる、との記述があった。これは非常に面白かった。つまり宇宙空間とは地球の表面のように真っすぐ歩きつづけると再び元に戻るような、限りはあるが果てはない世界らしい。

 さらに例えば、野球のホームランについて。ホームランを量産した王貞治氏はホームランを打てる理由を、「ボールがもっとも強く反発するバットの芯に気持ちを集中させた。遠くの外野席を意識しながらバッターボックスに立っていたわけではない」と語る。すなわち、最も大きな効果を得るためには、最も小さな極限のピンポイントを認識することが大切だということ。この王貞治氏の言葉には説得力がある。

 広大な宇宙の謎を解明するために、究極の物質である素粒子を研究しなければならないよう、見事にミクロとマクロとは通じ合う。そして「近」と「遠」も背中合わせのような関係にあることが想像できる。

 さて、「私」という存在だが、果たしてどこに位置づけられるのかといえば、じつはミクロとマクロの要にあるのだ。意識せずともヤジロベイの軸のように微妙に両者のバランスを取りながら「私」は彷徨しているに違いない。