背後の世界

 アンドリュー・ワイエスというアメリカ人の画家は日本でも人気があり、「クリスティーナの世界」という絵が特に好まれる。これは私も好きな絵のひとつであり、どこに惹かれるかといえば、自分の家を目前にしながら広い草原の中で両手を付いて横たわるクリスティーナという身体不自由な少女の後ろ姿に、なんとも言えぬ哀惜の情と神秘性が漂うからだ。

 私が特に好きな画家はドイツ後期ロマン派のカスパー・ダビッド・フリードリヒだが、この画家が描く人物像はどれもが後ろ姿だ。フリードリヒにとって物事の本質とは得体の知れぬ神秘性だったに違いない。正面の顔が見えないからこそ人間の後ろ姿には得体の知れぬ雰囲気が醸し出され、周囲の風景いかんにより神秘性が増幅される。カスパー・ダビッド・フリードリヒが描くどの絵からもゾクゾクするような不気味さが漂い、魂が吸い込まれそうだ。

 人間の背中は、なんとももどかしい存在である。もっとも近いところにありながら自分で確認することができない。人はだれでも得体の知れぬ世界を引きずりながら毎日を生きている。

 高性能の望遠鏡で遠い宇宙の果てを眺めると自分の背中が見えてくる、とは宇宙論の本などに出てくるたとえ話だが、ようするに一番近しいはずの自分の背中という存在は、じつは一番遠いところにあって決して手が届かない、という逆説を孕んでいる。

 だれでも他人の背中をいつも見ているくせに、自分の背中を見ることができないまま生きるしかない。人間の正体は背中にこそ宿っており、だれもが他人の正体を知りながら、自分の正体を知らずに生きてゆくしかないのである。私には、このことが人間世界のとても重要な事実ではないかと思う。