方向性の問題

 中国で高速列車追突事故が発生し多くの犠牲者を出したが、その直後の中国国内おける事故処理や報道規制に日本では大きな批判が湧き起こった。すなわち「日本ではありえない」との論調がマスメディアを中心に展開され、中国に比べ日本がいかに進んでいるかを自慢するかのようだった。

 しかし、あらためて説明するまでもなく、東電福島第一原発事故の現状における日本の事故処理やマスメディアの報道姿勢はとても自慢できるものではなく、その情報操作、閉鎖性、秘密主義には国民の多くが愕然とさせられている。

 0〜100の間において30や70の位置はまるで違うが、そのまるで違う位置関係も孟子のことわざ「五十歩百歩」のように同じ方向を目指すなら似たようなものだ。だが、30の位置にあるものが100を目指し、70の位置にあるものが0を目指すなら、意味は全く違ったものとなる。

 近隣諸国でも特に中国と朝鮮に対し日本は批判的である。日本の保守・右翼論壇では「先進国日本」が「発展途上中国」や「最貧国朝鮮」に比べて、なんと美しく素晴らしい国家であるかの主張が目立ち、そして体制批判を展開するリベラル派に対し、日本人のくせに日本に文句を言うな、文句を言うなら中国や朝鮮に言え! と煽るかのようである。

 なんとも不思議な光景だが、中国や朝鮮を批判する日本の保守・右翼を眺めていると、中国や朝鮮の独裁は悪、日本の天皇制を中心とした独裁なら善――ということか。結局、独裁は独裁、日本を中国や朝鮮のような体制にしたくてしょうがないらしい。本当は、保守や右翼の皆さんは中国や朝鮮が大好きなのだろう。

 日本は中国や朝鮮と同じ、などと言うつもりはサラサラない。冷静に判断して、日本の方がまだまだ自由で開かれた社会であるとは思う。だがしかし、現状の日本がいったいどちらの方向を目指しているかを問うならば、はなはだ疑問を抱かざるを得ない。

 外に対しても、内に対しても、独裁は批判しなければならないのは当然だが、その批判が説得力を持つためには、批判する側が、もっと自由でもっと公平な社会を目指しつつ、よりマシな部分をさらに発展・拡大させ、開かれた民主社会を見せることこそが何よりも重要ではないだろうか。