自由の境目

 結果として、もし私がドアを閉じ窓も開けないような部屋で一生を送ったなら、果たして私の人生の評価はどのように下るのだろうか。いつでも外出ができ、好きなときに窓を開けて景色を眺められるような、そんな自分の意思を働かせられる情況にあったとしての評価だ。

 部屋に閉じ籠る人生の評価。それは部屋のドアや窓の鍵を自らが管理できていたかどうかによるだろう。もし他者が鍵を管理していたなら、部屋の住人は刑務所の囚人か奴隷に等しい。しかし鍵の扱いが本人の問題に終始するなら、たとえ外の世界を知らなくとも住人は自由だったかもしれない。

 じつは、問われるべきは、だれかが自ら部屋に籠り窓も閉ざした一生を送ったとして、その人は果たして何を想像していたのか、にある。

 だれもが想像の源泉となる夢を見る。夢とは自らの経験や体験が錯綜し溶解した別世界のこと。別世界とはいえ、やはりこれまで自らが、見て、聞いて、触れた現実の世界が素材になっている。

 フランスの詩人ボードレール散文詩集『パリの憂鬱』に収められている「窓」という作品の始めは――

   開かれた窓を外から眺め込む人は、しまった窓を見つめている人ほどに、多くの物を見てい
   るわけでは決してない。(福永武彦:訳)

そして、最後は――

   〜僕の外側に存在する現実など、そもそも何ほどのことがあろう。

 たとえ窓が閉ざされていようと、詩人は外から部屋の内部を探ろうとしている。詩人は外の世界で喜びや快楽をはるかに超える辛酸を舐めつくしてきた。詩人は外の世界がまやかしであると分かっている。一方で詩人は、部屋に閉じこもる人が夢を見ることができるだろうかと疑いも抱いている。人生を豊かにするか貧しくするか、それは外と内とを隔てるドアや窓をいかに利用するかにあることを詩人は知っているのだ。

 散文詩「窓」は人間に想像力を問いかける見事な内容で傑作と呼ぶに相応しく、想像力を問うことは自由を問うこと、との示唆を与えてくれる。