仮面を剥ぎ取る

 意識に強弱はあるにせよ誰もが「自分とは何か?」と自らに問いかけるだろう。「自分探し」という言葉が流行るのも、自分のことは自分が一番知っているようで、じつはサッパリ分からないからだ。自分自身を問い詰めれば問い詰めるほど、自分とは何かが分からなくなる。まるで円周率の階段を降りて行くように・・・。

 身長や体重のような肉体に関すること、仕事や趣味のような精神活動に関すること、さらに好き嫌いや高所恐怖症など生理に関すること・・・等々、表面的なことならそれなりに分かっている。だが知りたいのは本質であり、本質とは偽りの表面に隠された裸の自分のことだ。

 本質を知る――。裸の自分を見る――。
 そんなことが可能だろうか。
 もちろん可能だが、それは簡単なことじゃない。
 仮面を剥ぎ取らなければ分からない。

 この世に生を授かった瞬間から、人間は誰もがさまざまな物事を頭のてっぺんから足のつま先まで刷り込まれる。他者によって刷り込められてしまう。

 例えば、社会から差別が無くならないのは、この世に放り出された無垢な赤ん坊が「差別ありきの周囲」から一気に刷り込められるからだ。差別の渦に弄ばれ、知らぬ間に差別する側に身を任せ、そのまま一生を終えるのはあまりに哀しい。ならば、操られ洗脳された自分自身を自らの手で解放しなければならない。

 仮面を剥ぎ取るために他者の力を借りるわけにはいかず、自らの力で剥がさなければ意味はない。何もしなければ仮面は何重にも自分を覆いつくすだろう。どんな手段を用いようと、どんなに時間を掛けようと、自分に相応しい方法で自らを剥ぎ取ること。それはたった一人の地道な作業となる。

 やがて、いつの日か、本当の自分を発見するときが訪れるかもしれない。いや、どんなに努力しても結局は分からないかもしれない。だが「自分とは何か?」の答えが自身の深遠に隠れていることだけは確かだ。