差別問題の本質

 随分前だが「紳士協定(1947年米国制作、監督エリア・カザン)」という映画を観たことがある。米国社会におけるユダヤ人差別の実態を告発した内容で、公開当時は米国で話題を呼び、評価も高く、第20回アカデミー賞作品賞を受賞した。

 詳しい中身は忘れたが、今でも鮮明に思い出す場面がある。主演のグレゴリー・ペックユダヤ人の客としてホテルに宿泊しようとすると、最初は普通に応対していた支配人が目に前の相手がユダヤ人であると知った途端、露骨に差別感情を露わにし、結局ペックは宿泊できない。しかし主人公のペックは実はユダヤ人ではなく、ユダヤ人を装い人種差別の実態を探ろうとしていた新聞記者だった…。

 ユダヤ人であるかどうかを本人が表明してから(たとえ嘘でも)区別するというバカバカしさ。ホテルの支配人は「ユダヤ人」というイメージの刷り込みで判断したわけで、そんなイメージで右往左往させられる人間の弱さに差別の根源が…と、それを痛感したわけである。

 私は北欧のノルウェー人とスウェーデン人とフィンランド人とデンマーク人の区別などまったくできないし、それどころかすぐお隣の中国人と朝鮮人とモンゴル人、及び日本人の違いすらさっぱり分からない。逆に北欧の人からは東アジアで生きる人々の区別はまずできないだろうし、彼らですらヨーロッパで暮らす人々の人種の違いなどハッキリ分からないはずだ。
 
 映画「紳士協定」に登場したホテルの支配人は米国内で暮らす米国人だが、そんな米国人だって誰がユダヤ人で誰がアングロサクソン人なのか実際は分からないのだ。白人と黒人の違いだって、その間に線引きなどできるはずがなく、ただ肌色に濃淡の差があるだけである。

 ○○国とか△△人、あるいは□□出身とか、それらを聞いただけで特有のイメージを抱くのは幼い頃から外からの一方的な刷り込みで当人がマインドコントロールされてきたからだ。そんな幾重にも着せられたイメージを脱ぎ捨てることが肝心だとつくづく思う。

 植え付けられたイメージは自ら脱ぎ捨てる。その作業ができて初めて人は差別感情から自由になれるのかもしれない。できるかどうか、それは人間が個人として自立を確立しつつ、かつ自律した生き方ができるかどうかにかかっている。