奥底から眺めたい

 私たちの心はいつも中に浮いている。シャボン玉のようにフワリフワリと当てもなく流されて、そしてある時、突然弾けて跡形もなく消え去る。

 いろんな思いが複雑に絡み合って、ひとつやふたつのシャボン玉が消滅したくらいで心自体が無くなるわけじゃない。でも、たったひとつの思いが肥大すると、それが何かのきっかけで破裂したとき、心そのものが大きく傷つき深刻な事態を招くことになりかねない。

 身の周りの事象に私たちはいつも翻弄される。事象はつねに変貌するので私たちはうろたえるばかりだ。

 例えば、東京電力福島第一原子力発電所の大事故が原因で、私たちはまさに右往左往させられているが、特に原発に依存せざるを得ない状況に置かれていた福島の地元住民は、自らの意思とは関係なく生死の境を彷徨わされているに等しい。

 いや、こと原発に関して狭い一地域だけの問題に留まらず、これは日本を含む地球全体の問題だろう。20世紀に核兵器が開発されてから、地球そのものが生死の境を彷徨っている、と断言していい。

 原発核兵器は表裏一体である、と京都大学小出裕章さんは鋭く指摘している。その通りだと思う。日本は原発という「平和利用」を隠れ蓑にしながら、いざとなれば即核兵器に転用させるために原発を推進してきたのだ。

 さらに残念なのは「核兵器のための原発」という本音が分かったからといって、日本ではすぐに原発廃止への道を歩み出せないことだ。なぜなら、憲法を改正し、日米同盟を強化し、軍事大国を目指そうとする勢力が日本では水面下で強く、それに共感する人々が多いことも事実だからだ。

 右であろうと左であろうと、あらゆる勢力はシャボン玉である。

 たくさんのシャボン玉が浮遊している。しかも、色とりどりのたくさんのシャボン玉だ。どんなにキレイで大きなシャボン玉でも、それはいずれ、かならず破裂する。

 ストローを吹いてシャボン玉を作っているのはいったい誰だろう? おそらくそれは特定の人物じゃない。それは私たち一人ひとりの「無意識な心」かもしれない。

 無意識な心の奥底を探らなければならない。奥底へ私たちは降りてゆかなければならない。降りて奥底から眺めなければ、私たちはいつもシャバン玉に惑わされつづけることになる・・・。