先が心配です

 これから先もずっと晴れマークが続く天気予報、日本各地で真夏日を記録、猛暑日も至る所で。完全に空梅雨、雨が恋しい。九州南部、東海、関東甲信は早くも梅雨明け。北陸も今週中に梅雨明け宣言が出るかもしれない。

 いつの間にか夏至も過ぎて、今は一番昼時間の長い時期。例年だと梅雨の最中、曇りか雨模様でせっかくの夏至も夕暮れは薄暗いが、今年は夕焼けがタップリ楽しめ長い日中が満喫できた。

 それにしても、まだ6月なんだけどなぁ。7、8月はどうなるのだろう。豪雨による大きな被害はまだ出てないが、熱中症で搬送とのニュースは連日目や耳にする、要注意。

 先週の日曜午後、能登半島先端の珠洲で大きな地震が発生、翌日月曜の午前中にもその余震と思われるかなり大きめな地震が起きた。幸い死亡者は出なかったが、神社の鳥居が倒壊したりホテルの窓ガラスが割れたりして、地震の怖さを改めて証明することになった。

 南海トラフ地震はいつ来てもおかしくないと注目されるが、日本列島に住む限りどこにいようと地震からは逃れられず、自分の足下が突然揺れることは常に覚悟しておかねば。

 もし夏の季節に大地震が襲いインフラが破壊されたら…電気、ガス、水道がストップしたらと想像してみる。地震で直接犠牲になる人以上に環境や衛生の悪化で亡くなる人が大勢出るだろう。

 急激な物価上昇、特に光熱費の負担が深刻で、節約せねばとの思いは強いが、下手にケチると体調管理に支障をきたす。暑ければ我慢せずエアコンの除湿・冷房を使おう。しかし電気代の高騰だけでも大変なのに、そもそも電力供給は大丈夫なのか。

 蓄積する不満は参議院選挙で怒りの一票で行使したい。ところが参議院選挙はまだ序盤なのに、早くも自民・公明の与党が圧勝との予想が出て、維新や国民を合わせて改憲勢力が2/3以上確保する可能性は高く、私としては非常に残念な結果となりそうな雲行きである。

厚化粧に騙されまい

 ネットやテレビで人物の写真や映像を見る時、非常に違和感を抱くのは私だけではないと思う。男女を問わず皆が見栄えのため派手にメークアップし、シミやホクロひとつない顔で登場してくる。

 人気タレントも、ニュースのアナウンサーやキャスターも素肌がマネキンのようにテカテカ光り、キレイすぎてかえって不気味である。メークアップ前と後があまりに違うとしたら詐欺のようなもの。

 私は一人の異性愛者の男性としてスッピンの美しい女性がなにより好きだ。無理に化粧などしなくていい、自然のままがいい。スキンケアは大切だが、それは化粧するのとは別問題。

 恋愛と結婚の決定的な違いとは、正に化粧した顔とスッピンの顔の違いなのだろう。外で時間を過ごす恋愛期間は化粧と付き合うということ。対して結婚すれば同じ屋根の下で長時間スッピンと付き合わねばならない。恋愛と結婚の大きな落差がここに如実に現れ、人々は実態を知ることになる。

 化粧で本当の姿を隠したがる傾向は、まるで日本経済の現状と重なる。これまで日本経済を支えてきた産業だった、繊維、造船、半導体、電器…が時代の変遷とともに悉く衰退。自動車業界さえEV化に乗り遅れ、もはや風前の灯火。観光だけが頼りだが、それも新型コロナの蔓延で、観光産業そのものの脆弱性を見せつけた。

 スッピンという現実をじっくり見つめ直すべき段階に入ったにも関わらず、いつまでも厚化粧して経済大国を装いたい日本。荒れた素肌をいくら厚化粧で隠しても益々醜くなるばかり。

 厚化粧で取り繕う必要などなく、素肌の健康を取り戻すために別の方法を探さねば日本は沈没、ガラパゴス化は加速してゆくだろう。大国の仮面を捨て、自然や環境に立脚した21世紀型経済へと大胆に舵を切るべきである。

正反対でも表裏一体

 孤独な人には大きく分けて二つのタイプがあるようだ。一つは、身の回りの事はひとりで出来るし、誰にも頼らず日々を過ごせるタイプの人。もう一つは、身体に障害を持つわけではないが、他人と会うのが怖くて外に出られないタイプの人。

 前者が自立してる人、後者は引きこもる人、世間ではそのように区別してるような気がする。確かに同じ孤独な人でも前者と後者とでは表向き全く違うので、前者はしっかりした孤高の人のように見られ、後者はだらしないダメな人と判断されやすい。

 しかしこの両者、正反対のようだが実は表裏一体で、両者に共通するのは依存する対象が極端に少なく狭いこと。そしてこの両者はじつは似たような言葉を口にしたがる、「大丈夫です」「気にしないでください」。

 さらに前者は自立してると思い込んでるからプライドが高く、また後者も他人からの視線を気にして怖れるあまり、両者とも「教えて」「助けて」と素直に口に出すことがなかなかできない。

 自分は自立してしっかりしてると自惚れる人は、働きもせずいつまでも親だけに依存して引きこもる人など、どうしようもないダメ人間で自分とは真逆の遠い存在だと認識してるかもしれない。

 だが、この両者の距離は意外と近い。人生は、いつ何時、何が起きるかわからず、病気やケガ、事件や事故、リストラ、倒産、離婚、死別…等々、人生の歯車を大きく変える突然の不幸に見舞われることは、どんな人間に対してもいくらでも起こりうる。

 昨日まで健康を維持し、仕事も順調、順風満帆な人生を送っていようとも、何かの要因で心的ショックに襲われ今日になって一気に転落、不幸のどん底に突き落とされる…そんなことはいくらでもあり得るのだ。そして、キレイに整理整頓されていた部屋も、気力が失せると短期間でゴミ屋敷化してゆく。

 40代後半から50代、そして60代前半の働き盛りにかけ、孤独死する人が目立つという。「下流老人」「絶望老人」「老後破産」「孤独死」それらは誰にでも降りかかる現象で、決して他人事ではない。

 イザとなった時、外に向かって救助の声を発せられるかどうか、意地を張るばかりでなく、弱音を吐き、愚痴をこぼすことができるかどうか。心の柔軟性をもっと身に付けなければ、社会的どん底へ急降下してゆくことにもなりかねない。

自立とは何だろう?

 「自立」とは何か?と考える。これまで私は自立とは何でも一人でできることが基本で、なるべく他者に頼らずに生きること。そのように思い込んでる節があった。一見それは確かに自立してるようだし、決して間違ってはいないけど、もしそれに拘るようでは自分を狭くするだけではないか、じつはそれだけが自立してるわけではないことが最近理解できるようになった。

 自立に反して「依存」があり、何かに依存して生きるのは自立してない証のように思われている。しかしどうもそれはあまりに狭い解釈のようだ。

 人は誰もたった一人で生きることはできず、大勢の人と繋がりがあり、人以外でも様々な物事に依存して生きている。自立してるかしてないかの判断基準とは、他者や物事に依存してる実態を自覚してるかどうか。すなわち依存の対象が多く持てる人ほど、むしろそんな人こそが本当は自立してるのではないか。

 以上のような考え方に拡大変化したのは最近図書館で「8050問題」に関する本を借りて読んだから。もう返却したので正式な題名と著者の名前、そして出版社はハッキリ覚えていないが、中身に説得力があり大いに納得したのであった。

 今のところ私は「8050問題」の当事者ではない。とはいえ「孤独」や「引きこもり」にはとても関心を抱いている。

 自慢するようだが私の家の中はかなり綺麗に整理整頓され、なるべく余計な物を持たないし、食事の後も即片付けるようにしている。何でも一人で処理したがる私である。しかしこんな状態がいつまでも続けられる保障はない。

 私がもしケガや病気をしたり、事故や事件に巻き込まれたらどうなるか、おそらく現状維持は無理、生活が激変するだろう。私のような独りを好む人物の欠点は他者や社会との関係が希薄で、閉じこもる傾向が強いこと、外に頼れる存在が極端に少ないことだ。

 引きこもる人は親や兄弟しか目に入らず、行動範囲も自宅の周辺のみ、中には自分の部屋だけが生活範囲という人もいる。すなわち引きこもりとは依存の対象範囲が極端に狭い人のことなのである。

庶民はつらいよ

 散歩を兼ね、ほぼ毎日夕刻時にスーパーへ足を運ぶが、一回の買い物が生活必需品だけで1500円前後の出費となると、この先、本当に大変なことになるのは目に見えている。

 どうすればいいか、節約するしかないだろう。今現在ですら、モヤシ、豆腐、ちくわ等の安い食材が中心で、実際、もうこれ以上何を節約すればいいのか分からないような状況。

 かつてのように一日1000円以内で済ませることは、もうほとんど不可能、せめて1100~1200円程度には収めたいもの。カレーが好きだから、一週間に少なくとも二~三度はカレーを作ることにしようか。

 野菜中心のカレーなら、食材も無駄にすることなく作れる。肉はひき肉で量は少なめの賞味期限が直近の半額シールが貼られたパックを選ぶ。カレーのルーは特売品をまとめ買い、酒(ビール)などもってのほかだ。

 今現在の物価高は昨年からのコロナ禍や原油価格高騰、米国・カナダの農作物不作が原因。ウクライナ戦争の影響は今年後半にやってくるから、ダブルパンチどころかトリプルパンチに見舞われ、庶民の悲鳴が今から聞こえてくる。知恵を出し、この危機的状況をなんとか生き延びねばならない。

 そんな落ち込む私の気持ちを癒してくれるように、我が家の庭のシマアジサイが今ちょうど満開、可愛らしい小さな紫の花びらが幾つも咲いている。街中を歩くと多くの住居の玄関先や庭などに、たくさんの紫陽花が植えられてるのを見るが、それらの蕾はまだ緑色で開花はまだかなり先である。

 なぜ我が家のシマアジサイだけが毎年こんなに早く開花し満開になるのか。品種が違うからと言われればそれまで、梅雨入り前に萎れてしまいそうだ。それはともかく、この紫の花は季節感がありとても良い。

 冬には南天の樹が赤い実をつけてくれるし、たとえ僅かでも自然の風情を家に居ながら味わえるのはありがたい。これで野鳥が飛来してくれればもっと嬉しいけど。ホント、花鳥風月の楽しみもなくなれば庶民は早々と窒息してしまう。

歴史は繰り返すのか

 ロシアのウクライナ侵略を契機に、北欧のフィンランドスウェーデンNATO加盟を申請、正式にそれが承認されるのはほぼ決定的。正直私はこの二カ国がNATOに加盟せず、あくまで中立の民主主義国として貫いてほしかった。危うい状況の最中だからこそ、火に油を注ぐような行為は避けて欲しいと思うから。

 とはいえ、フィンランドスウェーデンの気持ちも理解できる。とりわけフィンランドは直接1300キロもの長い国境をロシアと接してるから、不安になるのは当然といえば当然だろう。

 歴史は繰り返すというが、本当にそうなりつつあり、世界状況が100年前とだんだん似てきた。世界全体を巻き込む軍靴の足音が声高に聞こえる。

 一方、大流行した新型コロナもワクチンや錠剤の普及により、1~2年後にはかなり落ち着くと思われる。3年以内にWHOは収束宣言を出すかもしれない。その後、世界中が解放されたかのように、人々は自由な雰囲気を謳歌し、海外渡航は復活、旅行だけでなく、これまでになく人々の交流は盛んになる。

 ウクライナ戦争は結果としてロシアの敗北で終わるが、ロシアは自ら敗北を認めたりはせず、名誉の撤退を取り繕うだろう。表向き世界は平和と安全を取り戻したかのようになる。

 しかし、各国の軍備増強と野心は膨れ上がるばかり。繁栄の裏では大国を中心に資源強奪と覇権争いが繰り広げられ、さらに情報戦に明け暮れ、暴発寸前の事態にまで進展、そしてとうとう…。

 100年前はスペイン風邪(実際は米国で発症)が世界的に大流行し大勢の死者を出すもののやがて収束、第一次世界大戦も終わり、繁栄の1920年代で人々は有頂天。しかし29年に世界は大恐慌に見舞われ、やがてファシズム・ナチズムが台頭してくる。

 21世紀の現在、今から15~20年後が本当にヤバイ。100年前とソックリな事態が進行してるじゃないか。歴史は繰り返すと言うが、馬鹿な真似は繰り返してほしくない。歴史を学び、自由で平和な新しい世界を築くため、人類は今こそ知恵を出さねばならないはずだが…。

受け入れる変化、促す変化

 相変わらず肌寒いので半纏を羽織ってる。大型連休も終わり5月も中旬のこの時期、毎年こんなに冷え込んだかな、とふと思う。日中はともかく、夜間など冬のコートを着たくなるほど寒い。

 我慢するのはやめた。寒いなら暖房を点ける。5月半ばは初夏の季節、電気代がもったいない…とかなんとか気にすることなどない。体調を崩せば元も子もないのだから。

 ところで予想した通り、先週の大型連休後から今週にかけ、新型コロナ新規感染者数が再び全国的に急増し始めた。石川県も11日(水)は600人以上が感染、過去二番目に多かった。観光客が大勢押し寄せたことがおそらく原因と思われる。

 現在主流のオミクロン株は重症化しにくいし、ワクチンの普及もあり、人々の間で気の緩みが生じてるのか。重症化しなくても深刻な後遺症で長く苦しんでる感染者はかなりいるらしく、新型コロナは普通の風邪でないことは確かだ。

 さて、新型コロナの蔓延で健康志向は益々強まり、それで高齢になっても若さを保ちたいと誰もが願ってる。だが、自分の年齢はきちんと自覚すべき。自覚が足りないと、肉体的にも精神的にも現実とのギャップで逆に苦しむことになる。衰える変化を素直に受け入れつつ、穏やかに過ごせることが一番かも。

 ただ一方、日常に変化を促すことは重要で、毎日同じことの繰り返しは衰弱を加速させる。型にハマれば楽だし安心感も得られるが、型とはすなわち棺桶だと思った方がいいかもしれない。

 体力やお金の問題で限界があるのは仕方ないが、その範囲内でもいろいろ変化を試みるのは必要だ。誰もができることとして毎日の生活スタイルの見直しである。ただ「変化」という言葉に甘えて、マイナスに変化しないよう十分注意したい。変化とは活性化することで、自堕落になることじゃない。