気に病むことばかり

 窓からは明るい陽光と雲ひとつない青空が見える。連日暖かい日がつづき、花粉の飛散もかなり少なくなったのでホッとしているが、しかし体調は今ひとつ、物事になかなか集中できない。なぜなら歯痛が激しく奥歯で固いものが噛めないからだ。

 虫歯というより歯茎が腫れて強弱の痛みを繰り返す。以前にも似たような症状があり、しばらくすると鎮静したので、今回も痛みはやがて和らぐと思っていたがなかなか治らない。

 私の自慢の一つはこの20年間薬を飲んだことがないことだった。痒み止めの薬を塗ったり、目薬など使用してきたが、とにかく粉末でも錠剤でも薬と名の付くものは一切口にしなかった。だが、最近の歯痛で先日久しぶりに歯医者に出かけ、口の中をケアし、痛み止めの飲み薬を処方された。

 新型ウイルス、花粉、寝不足、そして歯痛…と気に病むことばかり。身の回りは油断ならないことだらけ、安心できるのはいつのことか。年を取るとともに身体に少しずつガタが来るのは仕方なく、結局、このまま死ぬまで何らかの心配事で苛まれるのだろう。

 それにしても新型コロナウイルスは変異を繰り返し、衰えを知らず、今や全国各地が緊急事態宣言下に入りつつある。金沢も急激に患者が増加中、キレイな青空とのギャップに戸惑う。

 今現在、金沢は連日30人以上の新型コロナ感染者が出て、病床使用率が急上昇、東京や大阪のように緊急事態発令は時間の問題だ。大阪は既に医療崩壊、東京も近々そうなる可能性は高く、一年で一番爽やかな時期のはずが、一番深刻な事態に陥りそうだ。

 そんな最中、菅政権と小池都政はどうしても東京五輪を強行したいようだが、ここに来て各分野から五輪中止を匂わすいろんな意見がようやく出てきた。国民の支持を得られないオリンピック開催に対する疑問の声がスポーツ界からも出始め、それらの真っ当な意見は健全な社会にするための一歩になることを願う。

五輪とスポーツ、残念なアスリートたち 

 菅政権、小池都政五輪組織委員会JOC、彼らは新型コロナが蔓延する最中、ワクチン接種が不十分でも、利権のため東京五輪パラリンピックをどうしても開催したいらしい。人々の安心や安全など二の次のようだ。

 残念なのはアスリートたちから疑問の声が大きくならないこと。むしろ大多数のアスリートは大会に出場したくて仕方ないらしく、傍からは彼らの立場の弱さが透けて見える。組織やスポンサーの広告塔を演じさせられ、まるで操り人形ではないか。

 オリンピックの現状は新自由主義と一体化してしまった。人生や社会を豊かにするための手段であるべきスポーツ自体がそんなオリンピックに呑み込まれ、カネ儲け主義、メダル至上主義、国威発揚、あげくは「五輪に生涯を賭け」たがる偏狭な意識に落とし込められた。文化としてのスポーツが完全に歪んでる。

 紛争、自然災害、感染症などで社会が緊急事態の時、オリンピックは即中止すべき。オリンピックの中にスポーツがあるんじゃなく、スポーツの中にオリンピックがあるのだから、オリンピックを神聖化せず、もっと気楽に向き合うべき。

 まずはアスリートたちが他者に依存せず、堂々と自分の意見を主張できるよう自立すること。それは社会の中で私たち一人ひとりが個人として自立できることと直結している。

 衣食住、及び言語などの文化は権力が勝手に作るものじゃなく、大勢の庶民が生活に根ざしながら、時間をかけ工夫発展させて来た。スポーツも人間社会になくてはならない存在として認知されているが、残念ながら日本のそれは文化として全然育っていない。

 開催まで100日を切った東京五輪だが、私は結局は中止になるような気がする。いや、もう、ほとんど中止になったようなものである。観客を入れず、恐る恐る開催するオリンピックなんて、もはや「オリンピックもどきの運動会」で体を成していないのだから。

 アスリートたちの多くは出場し結果を残すことで、人々に元気と勇気を与えたい、と相変わらず口にしたがるが、しかし「こんな大会に出場したくない、こんな大会は開催すべきでない」と彼らが言ってくれる方が、どんなに私たちに元気と勇気を与えてくれることか。アスリートたちの自覚と自立を願って止まない。

 

深刻な老後の現実

 結婚して子供ができ家庭を築いても、年月を経て、年老いた父親や母親を子供が直接面倒見てくれる保証などないし、父親か母親のどちらか先に心身が衰弱すれば、老老介護の事態になる可能性は高い。

 子供が親元を離れ自立し、遠い地方で生活しているとき、もし故郷の両親が倒れたらどうすべきか。「介護離職して親の面倒」は聞こえがいいが後で苦しむ。年金や副収入でそれなりのお金の目処が立つなら、施設へなんとか入居できるが、お金の工面ができない場合は大いに悩む。施設へ入るのが嫌で自宅で住み続けたい親にとって面倒を見てくれない人が傍にいないと本当に辛い。

 持ち家もなく年金も十分受け取れない独り身の貧乏人はどうなるか。「ピンピンコロリ」で逝ける人は稀で、今現在、人は死ぬ直前まで平均9~10カ月は寝たきりなのだそうだ。その間どうやって生きたらいいのだろう。ゴミ屋敷となり、ネズミに齧られ、ゴキブリに集られ、苦しみ悶絶しながら汚物に塗れての孤独死か。

 介護殺人という悲劇的な事件をときどき報道で目にする。それには腹を立てた子供(特に息子)が親を殺す場合と、介護疲れで夫が妻を、又は妻が夫を殺す場合とがある。

 老老介護で疲れ果て、つい相方を殺めてしまう場合は多少同情したくもなるが、しかし実態はもっと複雑、内実の見極めが必要だろう。夫が妻を殺す場合、介護がうまくいかずイライラが原因かもしれないが、妻が夫を殺す場合、イライラより積もり積もった恨みを晴らしたのかも。

 介護疲れを言い訳にする夫を安易に見逃してはならず、そんな夫は家事や育児のほとんどを妻にまかせきりだったのではないか。反対に、同じ介護疲れを理由にする妻は、おそらく夫に支配され長期間まるで奴隷のようにこき使われてきたのではないか。

 介護に関わる悲劇的な事件が目立つ。実際、介護する子供の側に問題が多いのは事実とはいえ、認知症を患った親が暴れて子供に迷惑をかける事例も聞く。

 特に認知症を患った父親が周囲に暴言を吐くという話をときどき耳にするが、そんな父親がこれまでどんな人生を送って来たか、人それぞれ性格にもよるが、何となく想像できるというもの。おそらく亭主関白、結婚しても家事や育児などにほとんど携わらず、妻をまるでお手伝いさん、家政婦、女中にしか見ようとしなかった、そんな夫の姿が見えてくる。

あたり前のことをしてるかどうか

 何か新しいことをしたがるのは前向きな人の特性である。特に表現に携わる者(人生とは表現そのものだから、じつは全ての人間に当てはまる)は少しでも前衛的でなければと思う。

 しかし、冷静になり振り返るなら、そもそも新しいこととは何だろう。他者がやっていなかったことを自分が初めて試みる、それが新しいことかもしれないが、その前に、まずは自らの足元を直視する必要がある。

 思うに、新しさを求めるのは重要とはいえ、あたり前のことは基本中の基本、生活の土台。まずは一人ひとりがあたり前のことが持続してできるようにならなければどんな新しさも説得力はない、それを自覚すべきだ。

 あたり前のこととは何か。それは例えば家事や育児のこと。それは日常の炊事、洗濯、掃除、買い物、ゴミ出し、様々な手続き…のようなことである。

 科学の分野でノーベル賞を受賞したとか、芸術の世界で斬新的な作品を創造したとか、あるいはスポーツで新記録を樹立したり金メダルを取ったとか、それらは確かに世間的には大した業績として残るかもしれない。だがしかし、それらは側から見て本当に「優秀」と呼べるのか。

 私はそれら名の知れた過去から現在までの有名人に問いかけたい。あなたは生前、あるいはこれまでに家事や育児をしてきましたか、身の回りの要件は自分だけでキチンと処理できましたか、少なくとも自らしなければという気持ちを抱いていましたか。

 私が東京で会社員をしていた頃、会社のベテランが独身の私にこう問いかけてきた。「自分で飯を作ったり、洗濯や掃除してるのか」、私がそうだと応えると「そんなの結婚して嫁にやらせろよ」。

 当時、そのベテランは私より5歳ほど上で、政治的には非自民党的な考えの持ち主だったが、自分が食べた後、自分の茶碗や皿は洗ったこともなく、それを自慢する素振りだった。根深いところで男尊女卑、非常に古臭い価値観に囚われていたようだ。

 あれから随分年月が経ち、ジェンダー意識の高まりから、表向き男女平等は当然のごとく叫ばれる今日だが、水面下の実態では意識改革が日本ではまだまだ浸透していない。あのベテランは今何をしてるのだろう、今現在も身の回りのことをしない、できないとしたら、あの人の老後は不幸…と想像するのは邪推か。

もったいない生活

 23日(火)金沢にも桜の開花宣言が出た。観測史上最も早く、予想以上の暖かさに今日29日(月)の段階でほとんど満開。いつも4月始めに開花する桜だが、今年は例年の咲く頃にかなり散ってしまいそう、何だか慌ただしい。

 さて、国内外で様々な事が発生、常に不穏な状況。とはいえ、まずは自分自身の日々を安定させることが肝心。そのため身の周りを整理整頓する必要がある。「断捨離」について過去何度か記述したが、似たような事柄をまた書く。

 多くの物だけでなく、いろんな契約や関係をなるべく遮断し、煩わしさから解放されたい。全てを断つと本当に無人島に住むことになりかねないが、周りとの関わりは必要最小限の人的交流や物事だけに絞るつもり。

 もし、未使用なまま仕舞い込んでる生活用品があれば、この際どんどん使いこなし、用が済んだら処分する。とにかく溜め込まない(防災用以外は)。それがどうしても必要な時が来たなら、タオルやスポンジや石鹸、シャツや靴下などどうせ安いんだから、また新たに購入すればいい。使わなければもったいない。

 ところで、貧乏人のくせに私は三種類のコンピュータ、すなわちパソコンとタブレット、そしてスマホを持っている。それらはどれもだいぶ古くなり、メインのパソコンは既に10年以上経ったし、タブレットスマホも5年以上使用している。

 そろそろ新型のコンピュータが欲しいけど、よく考えると古いそれらはまだまだ正常に動くし、私の日常生活を送る中、今でも十分に機能を果たし不便を感じていない。多機能で便利なコンピュータ、実際、私はそれのほんの一部分しか活用してこなかった。

 (IT機器のトラブルはここに来てかなり落ち着いた。全部の案件が解決したわけじゃなく、放ったらかしの部分もあるが、深刻な問題には発展しないと思う。)

 訴えたいのは、つまり安価な生活用品は溜め込まずどんどん使わないともったいないし、一方、高額なコンピュータは安易に買い換えたりせず徹底的に使いこなさなければもったいない、ということ。

春の憂鬱

 気づかないうちに春分の日が過ぎてしまった。だんだん日中の時間が長くなり、今では夕刻の6時を過ぎても上空はまだかなり明るい。家の周りの地面は少しずつ緑に覆われ、いずれ頻繁に草取りもしなければならなくなる。

 新型コロナの対策で大変なこの時期、花粉だけでなく黄砂までが大量に飛散。冬が終わり、暖かい春の訪れでウキウキしたいのに、むしろ憂鬱になりそうだ。まったく、安心して過ごせる期間は一年を通しても限られる。

 首都圏では延長されていた緊急事態宣言が解除されたが、医療の専門家だけでなく私のような一般人まで、誰が考えても新型コロナの感染者が増加するだろうことは予測できる。たとえ解除せずとも、感染者が増えるのは間違いなく、ただ、急激にか、それとも徐々にか、の違いだけ。後手後手の対策は、もはや何をやっても手遅れのようだ。

 本来なら全く逆のはず。緊急事態宣言中にもかかわらず状況が悪化した場合、人々にお願いするだけのスローガンから、むしろ感染拡大を抑制するため、より厳格に具体的な方策を提示しつつ、引き締めを強化するのが筋ではないか。

 新型コロナ封じ込め対策に関し、私は中国のような全体主義的強権的な手法には真っ向から反対するが、一方、スウェーデン式の開放政策も失敗したようでこれにも私は賛成できない(それにしても、トランプ前米国大統領やブラジルのボルソナロ大統領の無策は酷い)。悩ましいのだが、私が望むのは今のところ民主的な自発的自粛しかないと思っている。

 名称はともかく、民主的な自発的自粛とは、一人ひとりが他者への思いやりから自発的に一定期間徹底的に自粛すること。それができるためには、国や地方自治から納得できる補償は必要だし、何より民主主義の理念が草の根まで浸透し、イザとなったとき自ら実践できる土壌を普段から養っているかどうかだ。

 残念ながら、民主主義が成熟した国や地域は未だ世界中のどこにもないことを今回の新型コロナは炙り出した。欧米は民主主義が進んでるように見えて、実は自分勝手な利己主義が蔓延してることを露わにしただけ。個々を尊重する民主主義への道はまだまだ遠いことを自覚させてくれた。

最も大切なもの

 政治経済のデタラメ、不穏な国際情勢…それらで腹が立つことは多い。人間関係でイザコザは付きものだし、一人になっても思うようにいかないとイライラする。

 身近で腹が立ついくつかの典型として、高い買い物をしたのに全然納得できなかったり、期待するほど機能を果たさなかったりすること。例えば、レストランの食事がとても不味いとか、あるいは電子機器がサッパリ動いてくれない…等々。

 毎日の生活で最も大切なものは何かと考えれば「命」と言うのは簡単だ。しかし、その大切な命がより良い命となるために何が必要かと考えた場合、「金(カネ)や地位や名誉」のような俗物的なものから、「愛と自由と平和」のような抽象的なものまでいろいろ浮かぶ。しかしあえて言うならそれは「時間」ではないか。

 子供の頃はタップリあったので全然自覚しなかったが、年を取ると時間のありがたさを実感している。生きることは死に向かってひたすら時間を費やしてるわけで、日々減少してゆくそれは本当に大切にしなければとつくづく思う。

 私は最近、IT機器関連のトラブルで振り回されてる。プリンターがうまく印刷しなかったり、wiFiが突然繋がらなくなったり、表計算ソフトで初期的なことが操作できなくて嘆いたり、スピーカーのon・offが一定せずリセットを繰り返したり、USBメモリーが読み込めなかったり…。

 「なぜだ、どうすれば直るんだ!」こうして私はいつも想定外のトラブルで貴重な時間を食いつぶしてばかりいる。有意義な時間を過ごしたいのに何たることか。

 恥ずかしながら私の知識不足が原因。実は、IT機器関連のトラブルはネットで調べればほとんどが対処可能。ところが、その「調べる」という発想そのものがすぐに出てこない。いかに頭が固くなってしまったかということ。

 自身の焦りと怒りで日々を過ごし、その貴重な時間を益々減らすとしたらある意味悲劇かもしれない。一度呼吸を整え、身の回りを確認したい。わずかでもいい、ゆっくりとした時間を味わえたらどんなにいいか。