またまた大災害

 大型台風19号による土曜日の丸一日続いた大雨と強風が気になり、日曜の朝は起きてすぐテレビを点けて全国の被害状況を確認した。驚いた。長野や新潟、そして関東から東北にかけて、多くの河川で堤防が決壊・氾濫し甚大な被害を出していたからだ。

 千曲川阿賀野川那珂川阿武隈川など日本を代表する有名な大きな河川で、上流から下流まで何箇所も堤防が決壊・氾濫、民家や田園地帯が広範囲に渡り水没してしまっている。屋根に出て救助を待つ人々の姿もあちらこちらで見える。これほど多くの河川が多くの箇所で同時に氾濫したのは初めてだろう。

 今年は比較的自然災害は少ないと思っていたが、この台風19号による被害を見てそんな浅はかな意識はブッ飛んでしまった。こんな大災害は東日本大震災以来じゃないか、でもまだあれから8年しか経っていない。今後犠牲者の数がさらに増加しそうでとても心配である。

 15号のときは強風が、そして今回の19号は豪雨が目立ったが、それにしても四十八時間で500ミリ以上の雨量、神奈川では1000ミリを超える地域もあったというから、そのあまりの凄まじさは想像を絶する。

 大型台風19号が日本に近づくにつれ、東海と関東を直撃し、大きな被害が出ることが前もって予想されていたが、千葉県などは先の台風15号による被害が未だ修復されず、さらに今度の台風19号で追い討ちをかけれれたのだから悲惨だ。短期間で二度も強烈な台風で被害に遭うなんて、ただもう気の毒としか言いようがなく、運の良し悪しを痛感する。

 台風の中心付近から離れていたとはいえ、金沢も油断できなかった。土曜は朝から強く雨が降っていたし、夜にはかなりの暴風が吹いたのでなかなか眠れない。状況が気になり丸一日何をしても集中できなかったので、滅多に見ないテレビも点け、ラジオやネットの情報にも注視しながら過ごした。

 気候変動はもう止めようがない。今世紀末まで全体の温度上昇2~3℃を1~1.5℃に抑えたとしても上昇することに変わりなく、台風の大型化とそれに伴う大災害は予想される。そのことをしっかし認識した上での防災や非難の対策を講じなければ。

現状と放送法とのズレ

 NHK受信料を徴収するため我が家を訪れた担当者に、私は「見てないので払いません」と即答した。この返事に対し、見てないと言いながら本当は見てるだろう…と疑いの目で私を凝視する。確かに、証拠がないので疑われるのは仕方ないが、私はウソつきだと思われたくないので、であればこそ見た分を計量できる装置を設けたらどうかと逆提案してみた。

 とにかく私は普段からNHKも民放もまったく見ないので、屋根のアンテナを取っ払って欲しいとさえ言おうとしたくらいだ。私はテレビと呼ばれる受像機を持っているが、それは主に映画鑑賞のためであり、ネットで配信されたコンテンツを活用してるだけである。もちろん私はインターネットの料金は払っている。

 ところでNHK受診料は、個人には世帯ごと、事業者はテレビの台数ごと、それぞれ徴収しているのが実情らしい。しかしこれを根拠付ける法律はどこにもない。放送法64条には「受信設備を設置した者は~契約をしなければならない」と書かれており、「世帯」の言葉はどこにも見当たらない。本来は個人であろうとテレビ台数ごと徴収するのが基本のはずで、つまりNHKはじつにいい加減(悪い意味で)な徴収をしてることになる。

 現状の受信料はNHKの放送に対してというより、ただテレビを所有してるだけで無理矢理払わされ、NHKであろうと民放であろうと関係ないのだ。だから、NHK受信料とは実はテレビ代金ではないのか。私は電気量販店でテレビを注文したとき、既にテレビの代金は払ってる。なんで毎月テレビ代金を払い続けなければならないのか、とさえ思ってしまう。

 NHKであろうと民放であろうと見るか見ないかは人の自由。私のようなテレビ番組をまったく見ない人から、テレビを点けても、NHKばかり見る人から、民放ばかり見る人もいるだろう。真剣に見ることなくただ時計代わりに利用してる人もいるに違いなく、千差万別のはず。それを一緒くたにしてNHKに受信料を払えというのは土台無理がある。

 当たり前だが、テレビは見た分(受信した分)だけ払えばよく、見なければ(受信しなければ)払う必要はない。「NHK受信料」という名称そのものが間違っている。ガス、水道、電気と同様「テレビ放送受信」にすればよい。大幅に放送法を改定しなければ納得できない。

公共放送は重要だが…

 先の参議院選挙では泡沫扱いされていた「NHKから国民を守る党」が躍進し、議席を獲得するまでに至った。党首の立花孝志という人はNHKスクランブル化を目指している。右翼的なこの政党を私はまったく好きになれないが、少なくともNHKのあり方に問題提起したことは紛れもない事実である。

 立花孝志氏の訴えるスクランブル化とは、受診契約した人だけがテレビを視聴できるシステムで、確かにこれは単純明快で分かりやすい。しかしNHKや政府はこれでは公共性が失われるとして拒絶する。現在のNHKの報道姿勢や安倍政権のデタラメさとは別に、私も公共放送は重要だと考える。

 「NHKから国民を守る党」はかなりどころか相当怪しく、右翼的で支離滅裂な面々が揃うこんな政党を支持するわけにはいかない。しかしスクランブル化を提唱しNHKを批判することで、普段からNHKに不審を抱いていた左翼・リベラル的な人々の一部が共感を寄せている事実は否定できない。NHKを批判する一点において、意外にもある程度の支持を得ている。

 繰り返すが私はNHKスクランブル化には反対である。もしそれが実現したらNHKの公共的な使命は終わるし、国鉄や郵便が民営化されたようにNHKも民営事業に変貌することは間違いない。「NHKから国民を守る」と言いながらスクランブル化を提唱し、公共的な存在を目の敵にするところがいかにも右翼的で、くれぐれも騙されないようにしたい。スクランブル化することで受信契約しなくても見放題の輩が大勢出てくる可能性もあり、不公平がより拡大する恐れもある。

 NHKを嫌う人たちの多くが現在の安倍政権寄りの報道姿勢を批判し、民放と代わり映えしない「くだらない」バラエティ番組が多過ぎるという理由などから受診料を拒否するが、私もその気持ちは本当によく分かるし、拒否したがるのは当然だと思う。また、NHKの会長や経営委員の面々がいつのまにか一方的に決められ、「みなさまのNHK」の皆様からの意見がまったく反映されない現状は大問題だ。

 とはいえ、私はNHKの受診料は払ってもいいと思っている、ただし視聴した分だけ。当たり前だが、視聴してなければ払う必要などない。前回の記事でも書いた通り、NHKには公平を目指すまともな公共事業を展開してもらいたいのである。視聴者は良質な番組ならば見るし、つまらなければ見ない。受信できる装置を持っているだけで同一料金を徴収するのはあまりに一方的、かつ不公平、だから私は現状の受信料を拒否する。

NHK受信料の疑問?

 戦争や自然災害、そして予期せぬ事件・事故等など、それら理不尽な状況に投げ込まれた時とは別に、表向きは平穏な社会を日々生きる私たちにとって、一番腹立たしいのは「不公平」を実感した時だろう。

 今現在、私が日常生活を送る中でもっとも腹立たしく思うのは、NHKの受信料と消費税である。考えれば考えるほど、この両者は不公平で成り立っている。誰からも同額徴収するこの料金システムは、格差のない社会においてのみしか成り立たず、であればこそ格差が拡大する現在、逆に格差解消のため受信制度を見直し、消費税は廃止すべきだ。

 この10月から10%に引き上げが決まってしまった消費税はひとまず脇に置きNHK受信料について考える。私がNHK受信料はもっとも不公平な料金システムだと思うのは、

1. 四六時中テレビを見てる人と、まったく見ない人が、なぜ同じ料金なのか。(見ない人からもなぜ徴収しようとするのか)

2. 大豪邸で最新の大型テレビを何台も所有してる人と、小さなテレビ一台しか持ってない人が、なぜ同じ料金なのか。

3. 年金暮らしの高齢者やアルバイト・派遣等の低所得者と、何億も収入のある人が、なぜ同じ料金なのか。

 これらの事実(人=世帯)を知るだけで、あまりに不公平なことが分かる。

 仮にもNHKが「公共」を名乗るのであれば、公共放送にふさわしい姿勢を示さなければならない。少なくとも、同じく公共のガスや水道や電気のような料金体系にするべきだ。ガスや水道や電気は使用した分を払うように、同様にNHKも視聴した時間分の料金を徴収すればいいだけの話である。

 例えば月毎、20時間以内は200円、40時間以内は400円、60時間以内は600円、80時間以内は800円、100時間以内は1000円で、それ以上は見放題の1200円に設定すればよい。全く見ない人は勿論0円、基本料金は取るべきではない。ガスや水道や電気の料金を滞納すれば止められるように、受信料も払わない人には電波を遮断すればよい。

 公共を名乗るNHKだが、実態はほぼ国営に近く、みなさまのNHKどころか、安倍政権に忖度するNHKに成り下がっている。NHK問題は非常に深刻で、現状についてさらに考察し続けたいと思う。

 

災害の恐怖

 雷が鳴り、強風が吹き、豪雨が降ったときなど、私が子供の頃は停電になることがしばしばで「ああまたか」という感じだった。今現在、幸いにもまったく停電を経験しない。であればこそ、昨年の地震による北海道のブラックアウト、そして今回、台風15号による大規模停電には驚くとともに、金沢に住んでる私はただ単に運が良いだけだと痛感する。

 関東地方を直撃した台風15号は強力だったとはいえ小型、だから金沢にはほとんど影響がなかった。そのせいもあり被害は大したことないように思えたが、とんでもない間違いだった。

 凄まじい強風で送電線や鉄塔が幾つも破壊され、数多くの樹木が倒され、東京、千葉、神奈川などの首都圏で90万戸もの停電が発生、今現在も千葉県を中心に大勢の人々が生活困難に陥り、熱中症で死亡した人も出ている。

 一旦停電すると水を組み上げるポンプも作動せず断水となり、私たちがいかに電気に頼って生活しているか、災害に遭って初めて実感するというわけだ。ハイテクの進んだ現代社会も電気の供給が止まれば石器時代に逆戻り、私の家もオール電化なので脆い。イザとなった時の準備は必須だ。

 停電しても昔はそれほど怖くなかったが、何もかも電気に依存しながら生活を送る現代でそれが起きたらと思うとゾッとする。それにしても台所やトイレまで電化された生活を送るようになるとは、一昔前までの私には想像できなかった。

 昨年は、北陸地方の豪雪、岡山県倉敷市真備町の豪雨、酷暑の熱中症、台風21号の強風で関西国際空港連絡橋にタンカーが衝突し道路と線路が破断、北海道胆振東部地震によるブラックアウト等々、大きな災害が連続し、昨年に比べれば今年はそれほどでもないかな…と感じていた私だが、被害に遭われた方々からすれば比較など論外だろう。 

 犠牲になった人々や被害に遭われた方々に思いを馳せ、同じ境遇になるかもしれない我が身を想像してみる。つくづく安易でダラシのない今現在の自分を実感する次第である。

便利だからと喜んでばかりはいられない

 IT技術の進歩は目覚ましく、10年ひと昔が今や三年…いや一年ひと昔になってる。世の中は便利な品物で溢れかえり、新製品が次から次へと生産され、あっという間に身の回りを取り囲む。そして、それらのどれもが小型でオシャレで格好良くて、外出すると時も肌身離さず常に持ち歩きたくなる始末。

 電気量販店で今話題の自動翻訳機「ポケトーク」を触ってみた。まさにポケットに入る小型サイズで、しかもとても使い易いと感じた。値段は3万円前後で少し高いが、よく売れているという。WiFi無しでも使えるのが良い。実際に現物を見て私も一台欲しくなった。

 しかし、よくよく考えると「ポケトーク」など必要ないのだ。私のスマホには自動翻訳のアプリが幾つも入ってるし、いつもスマホを持ち歩いてるのだからそれを活用すればよいだけのこと。宣伝情報に煽られての衝動買いは無駄の極み、もっと冷静になり足元を見つめなければと自戒する。

 じつは私のような怠け者にとって、ちょっとした準備や操作が意外と面倒で、ボタンを押すことやイヤホーンを付けることですら、次第に面倒臭くなってくる。心の奥底で、身軽でいたい、パンツ以外なにも身に付けたくない、という本音が横たわる私だからである。

 スマホを始めとするITを駆使した電子機器や、高速で精巧な通信技術の発達は、私たちの生活環境を激変させ、確かに豊かで便利になったように見えるが、しかし本当にそれらのおかげで私たちは幸せになったのか…と怠け者の私は大いに疑問を抱くのである。

 時代の先端に接すること自体、それは素敵な体験かもしれないが、と同時に違和感を覚えることも確か。多くの識者が指摘する通り、じつはIT技術の進歩で自由を得たのではなく、むしろ私たちはガチガチに管理されてしまってるのが実態だろう。

 スマホなど一見とても便利な代物だが、それは言葉を変えれば、じつは拘束する機械であり、かつての「鉄の鎖」が今では「スマホ」に代替されてるのじゃないだろうか。スマホを自在に扱うというより、逆にスマホに弄ばれてる私たちではないのか。

時代の要

 9月が始まった。この時期、私のような平凡な人間は夏が終わり秋の訪れを実感するだけだが、しかし小学・中学・高校生にとって、8月の終わりから9月の始めは一年で一番嫌な時期に違いなく、多くの若者が悶々として悩んでいるのだろう。

 18才以下の若者の死因の最多は自殺で、その発生日は8月31日が突出して多いらしい。だが別にそれは不思議でも何でもなく、そうなる原因は本当によく分かる。私も嫌々学校に通っていたかつての辛い日々を思い出す。今現在、こうして生きていられるのも、単に運が良かっただけだ。

 不登校を含めた「引きこもり」の増大が社会問題化して、世間の目は引きこもる人々に対して随分冷たい。しかし、考えようによっては、引きこもる彼ら彼女らは、現状の社会に対し口を閉ざしつつ異議を申し立てているかのようだ。

 かつて労働組合が強かった頃はストライキが頻繁で、労働組合は人々の生活を維持・向上させるために頑張った。時代は変わり、労働組合の組織率はどんどん低下、それどころか会社側と一体化し、時の権力に追従する始末。弱者は益々弱い立場に追いやられてしまっている。

 ある意味、引きこもりとは非暴力・非服従を貫く、今や労働組合に代わる、幅の広い異質の抵抗勢力なのかもしれない。組合の闘争は団結していたが、一方、引きこもりは孤立している。両者の姿勢は真逆のようだが、社会に問題提起するという意味では共通だ。

 それぞれの時代には「要」が存在し、それなりに役目を果たすのだろう。労働組合が弱体化した現在、じつは繊細で感受性が強く自省に明け暮れる「引きこもり」こそが今の時代の要なのかもしれない。

 人は誰でも考える「何のために生きるのか」。簡単に答えを出すことなどできるはずがなく、もし正しい具体的な解答が出たとすれば、それこそが最も怪しげとなる。歴史上、どんな分野でも重要な役割を担って来たのは内省的人間だった。何のための人生? 何のための社会?