激しい移り変わり

 少し前の新聞記事によると、今夏も記録づくめの暑さで、金沢は27日連続30℃超え、猛暑日も6日となり、例年にない暑さに見舞われた去年よりも暑くなったことが分かった。おそらく今夏は史上最高の暑さを記録することは間違いない。

 そして来年はどうなるかと想像するなら、さらにもっと暑くなるなる可能性もあり、冷夏を期待することなど、もはやできなくなるかもしれず、大変な時代に入ってしまったと実感する。

 それでもお盆に直撃した台風10号の影響で、その後は雨が降る日が増え、ずっと続いていた熱帯夜も一段落。一昨日には朝方の最低気温は23℃前後まで下がり、久しぶりに熱帯夜から解放された。日中はともかく朝方は急に涼しくなった気がして、返って眠れなかったほど。熱帯夜から解放されホッとしているが、夏の期間中に乱れた生活のリズムを整えるにはしばらく時間がかかりそうだ。

 今年の5月は好天が続き、まるで夏のように暑かったが、梅雨に入った途端涼しくなり雨量もそれなりに多かった。そして冷夏の予想を裏切り梅雨明け以降は酷暑が続き、お盆が過ぎてからは再び梅雨に逆戻りしたかのように雨模様。今年は夏と梅雨を繰り返してるかのようで、気候もデジタルのように極端に変化する傾向が見られる。

 ところで私は近くの図書館からいつも本を借りて読んでる。一度に借りる数は平均4冊で250ページ前後の本が多い。それを二週間以内で読み終え、また新たに4冊借りてくるサイクル。だから月にすると約10冊の本に目を通してることになる。

 社会評論を中心になるべく新しい本を読もうとしているが、最新のものは図書館には少ない。新しくてもだいたい4~5年ほと前の書籍が図書館には多く、鋭く問題提起する内容で感心するものは多いが、しかしたった数年しか経過してないのにかなり古臭く感じてしまうは、それだけ社会の移り変わりが早くて激しいということなのだろう。

 気候や政治経済を包括した社会の状況が短期間で著しく変化するからついて行くのが大変だ。その場限りで短絡的に判断し決断を下すことは禁物。一喜一憂させられ踊らされるのは御免被る。やや長期的な視野に立ち、常に足元から現実を見つめようとする冷静な姿勢を忘れないようにしたい。

敗戦記念日に寄せて

 月の後半に入っても相変わらず暑いが、しかし強烈な日差しは少しずつ弱くなってきたようだ。日没もだんだん早くなり、夜には鈴虫の鳴き声も聞こてきた。最高気温は32~33℃、猛暑日にはならないのでホッとしている。

 8月は夏の盛りで海や太陽のイメージが強いが、それ以外では何を連想するだろう。お盆の季節で、全国高校野球選手権大会が甲子園で開催される月でもあるが、何と言っても太平洋戦争が終了した月であり、日本は戦争で負けたというイメージが強い月である。

 今月の8月15日は日本の「敗戦記念日」だった。先の第二次世界大戦で日本は完膚なきまでに敗北したが、世間一般では敗戦を終戦という言葉で誤魔化している。

 日本は米国だけでなく、中国にもその他のアジア諸国にも、そして何よりも世間の常識に敗北した。1945年の8月15日まで日本はあまりに非常識な道を進んできたが、その結果として、日本だけで310万人の犠牲者を出し、アジア諸国を中心に数千万人の尊い命を奪ったのだ。

 そして戦後74年後の今現在、非常識が再び日本を覆っている。時の流れと共に変わったのは表層だけ、日本は本質的にちっとも変わっていなかったようだ。変わるとはどういうことなのか、私たちはもっと学ばなければならない。

 平成天皇は在任中、沖縄や太平洋の島々へ「慰霊の旅」に出かけ、先の戦争で亡くなった人々を弔ったが、それはあくまでも日本人の戦争犠牲者に対してだけだった。

 元号が「平成」から「令和」に変わり、新天皇が即位。令和天皇には是非実行してもらいたいことがある。「慰霊」を継承するのはもちろん令和天皇には、中国や朝鮮や東南アジアへ、日本人の加害者としての責任を自覚する「旅」に出て欲しい。そしてアジア諸国で犠牲になった人々に対して「深い反省」を実行してもらいたい。侵略国日本、加害者日本人の自覚を象徴天皇として具体的に世間一般に表明できてこそ日本は未来へ一歩前進できる。

 安倍晋三首相は「未来志向」という言葉に逃げて、過去を直視することを極端に恐れているが、過去に目を閉ざし未来を切り拓けるわけがない。「深い反省」をしない安倍政権は日本を確実に衰退させ、滅亡への道を加速させる。

予想外れる

 好天が続いた5月の終わり頃、今夏は昨年の反動で冷夏になるだろうと全国の天気予報士が科学データを基に予想し、私もおそらくそうなるだろうと思っていた…ところが、梅雨明けした途端、日本各地で猛暑日が続き、うだるような暑さに見舞われる。冷夏の予想は見事に外れ、それどころか昨年並みかそれ以上の酷暑で外に出るのが恐いくらい。

 私の家は二階建てだが、夏の期間、二階は金星のように熱が篭り、短時間で熱中症になりそうでとても暮らせない。エアコンは二階にも設置されているが効率が悪そうで電気代がもったいないから使わない。今現在、生活のほとんどは一階で済ませている。それにしても熱帯夜が続くのでなかなか眠れず、生活のリズムが狂う。

 一階はエアコンを効かせると涼しく過ごしやすくなるが、ほぼ一日中稼働させてるので8月の電気代がちょっと心配である。でも、暑さをガマンして体調を崩すくらいなら、多少電気代が高くなっても仕方ない。朝から晩までエアコンは付けっ放し、寝てる間も扇風機は回しっ放しだ。寒い冬は嫌いなのに、冬の方がまだマシと思う、それほどの激暑。

 正直、私が住む金沢の今年の夏は去年の夏より暑いかもしれない。既に熱中症で亡くなった方は県内で去年を上回り、熱中症はもはや台風や豪雨と並んで完全に災害となった。

 来年の七月下旬から8月上旬、すなわち一年で一番暑い時期に2020東京オリンピックが開催されるわけだが(私は今現在も東京オリンピック開催に反対!)、こんな猛暑の下でスポーツの祭典なんてほとんど狂気の沙汰。事故が起きないことを願うが、余程の対策を考えない限り、選手からも観客からも死者が出る可能性はある。

 梅雨明け以降ほとんど雨が振らず、大地は干上がり雨が恋しくなってきたこの時期、大型の台風10号が日本列島に接近してきた。今週半ばのお盆頃、西日本のどこかに上陸するだろう。場所によっては恵の雨になるかもしれないが、しかし災害の雨をもたらすかもしれず要注意。毎年のように台風の被害が出る。安全な台風などありえない。

 今年に入ってこれまでのところ、地震や豪雨は各地であったが、幸いにもそれほど大きな被害に見舞われなかった。しかし、油断は禁物、必ず何かが起きると覚悟しておくべきだろう。予想は外れてほしいけど…。

悲観論を乗り越えたい

 まるでブラックホールだ。今現在、日本だけでなく世界全体が、渦を巻いて奈落の底へ吸い込まれているかのよう。世界のトップがトランプや習近平プーチン安倍晋三金正恩、ネタニヤフやジョンソン(英国の新首相)みたいな連中ばかりだから救いようがない。カナダのトルドー首相のようなまともな政治家もいるが、全体を俯瞰すると正気が狂気に弄ばれてる。

 包丁は美味しい料理を作るための真っ当な道具だが、それが台所から離れて所構わず振り回されるとしたら危険極まりない。ところが、そんな狂気が日本でもしょっちゅう起きる。

 直近では、愛知で開催されていた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」がたった三日間で閉鎖されたこと。理由は脅迫のメールや抗議の電話が相次ぎ、主催者側は危険な状況に陥ることを恐れ閉鎖を判断。

 正気の芸術祭が狂気の脅しに屈したわけで、標題通り今現在の不自由な日本の実態を「表現の不自由展」の閉鎖が証明してしまった。名古屋の河村市長は主催者側に謝罪を要求したらしいが、全く逆、脅迫や抗議で閉鎖に追い込んだ輩に対してこそ強く憤り謝罪を求めるべき。だが、残念ながら河村市長の言動に今現在の日本の行政の姿勢が集約されている。

 こんな本末転倒な状況を見れば悲観的にならざる得ないだろう。現実は厳しく、物事の詳細を知れば知るほど暗澹たる気持ちになる。ただ悲観的になるのは自分が何もできない場合であり、自分が行動し、少しでも社会に変化を促す事ができるなら希望は抱ける。安易な楽観論は禁物だが、悲観論に浸ってる場合じゃない。

 歴史を拓くと言えば大袈裟だが、少なくとも「自ら生きる」ためには、悲観論ではなく、何でも良いから楽観的になることが重要だと思う。左翼やリベラルの意見は重要で私は概ね賛同するが、とはいえ現状を批判することで、あまりに悲観的な論調に走り過ぎてるような気もしないではない。

 これからの社会を支える若い世代が保守的になったのは、ひとつの要因として左翼・リベラルが楽観的ではないからで、厳しい現実の中でも楽観的な要素を見出し提示しなければと思う。誰だって脅迫や抗議を受ければ落ち込むが、そうならないための社会の仕組みを再構築できたらいい。その一つの手段がもっと楽観的になること。世の中に悲観して幸せになれる人などいないのだから。

微かな希望の光

 7月21日は第25回参議院選挙の投票日だった。一部の激戦区はそれなりに盛りあがったようだが、全体的には物静かで、投票前から大体の予想は付いていた。与野党におけるほんの数議席の増減が明暗を分けるのではないかと思いつつ、私は午後から投票に出かけた。

 ところで私は投票権を得た二十歳以来ただの一度も棄権したことはない。社会生活を営む大人の人間として当然の義務と権利である。「選挙で投票」はまったく自慢にならないが、しかし私のような人間は今や希少価値にされそうで、それほど人間として義務を果たさず権利を放棄する人が多くなり、危機的状況になったと言える。

 自民、公明、維新など改憲勢力が2/3以上の議席を確保するか、それとも立憲、共産、社民など護憲勢力がそれを阻止できるか…現在の日本はそんな低次元レベルまで政治を貶めてしまったが、その原因は政治家にあるのは勿論とはいえ、それ以上に国民があまりに無関心で無責任になったからだ。

 参議院選挙の結果がほぼ出揃い、予想通り国会の勢力図に大きな変化はほどんどなかった。国民は悪い流れに突き進む現状維持を選択したかのようである。かろうじて改憲勢力2/3以上の議席獲得は阻止できたものの、今後の与党から野党への切り崩し戦術で果たしてどうなるか予断は許さない。

 それにしても全国平均の投票率はたった48%で過去二番目の低さ、地元石川では過去最低を記録したというから、じつに嘆かわしい。しかし、そんな低投票率の状況下、与党勢力の議席増をなんとか食い止められたのだから、見方によっては野党は善戦したと言えるかもしれない。

 普通に考えれば投票率が低くなればなるほど与党が有利になるはずで、そうならなかったことから次の衆議院選挙に微かな希望の光を見出したのは私だけではないだろう。特に「れいわ新撰組」が代表の山本太郎を犠牲にしてまで重度身体障害者二人を特定枠で当選させたことは快挙であり、さっそく参議院バリアフリー化せざる得なくなったことは特筆ものだ。

 次の衆議院選挙では女性候補者がもっと立候補し多くが当選してほしい。そして真っ先に女性用トイレを増築させ、国会内を改善させる必要がある。とにかく男性と女性の議員数はほぼ等しくなるべきで、現状のような不公平で不平等がつづくなら、日本社会は救いようのない奈落の底へ落ちてゆく。

健康診断は受けたくない

 振り返れば、もう20年以上健康診断を受けてない。東京の会社員時代は毎年一回義務として受診せざる得なかったが、脱サラしてBarを経営してから、そして金沢へ帰郷した後も、健康診断には全くご無沙汰である。

 周りからはきちんと健康診断を受けるようしょっちゅう促される。未受診は良くない態度のように側からは見えるかもしれない。だがしかし、冷静に考えれば考えるほど私はこれで良いのだ、と勝手に思ってしまう。

 医療は専門分野の最先端だし、医者には誰もが簡単になれるわけではないし、だから私は医学の世界には特別な尊敬の念を抱いているが、しかし私は医学の何もかもに信頼を寄せてるわけでは決してない。

 医者の多くは良心的だと思うが、しかし中には人の健康よりカネ儲けばかり考えてる医者もいるようで、もし下手に健康診断を受けたりしたら、問題がないにも関わらず用心のため高額の薬を薦められる可能性がないとも限らない。

 私はこの20年間、ムヒのような痒み止めの塗り薬か、リラックスする為の目薬しか使用したことはなく、幸いにも錠剤や粉末の薬は飲んだことがなく、サプリメントもこれまでただの一度も口にしたことがない。

 野菜、魚、肉…好き嫌いなく食事を摂り、適度な運動に励み、読み書き、そしてボランティアなどに参加、感情を活性化させ、理性で物事を判断する…それらの行為こそが人にとって最良の健康法なのだと確信している。

 現在の医学、特に西洋医学は本当に信頼に値するものなのか。実際の薬に限って言えば、数ある難しいカタカナ名のものより、漢方薬の方がまだマシなような気がするが、これは単なる偏見だろうか。健康の為に薬を処方するなんて本末転倒も甚だしいのでは? ともかく、薬物漬けの人生など真っ平御免である。

サバイバル

 「8050」に要約され、中高年の引きこもりが大きく注目されてる。これまで15~39歳までの若い世代だけしか統計がなかったのが、40~64歳まで拡大すると61万人もの引きこもりが増加、親の貯蓄と年金に頼るしかない実態が明らかとなり、親と死別した後彼らはどうなるのかという深刻な問題に直面することになった。

 実際の数はもっと多いいんじゃないだろうか。社会と断絶してることが引きこもりの定義とするなら、定年退職後、一人暮らしをしてる高齢者の多くが当てはまるかもしれない。なんとか一人で毎日生きてはいるものの、話し相手はほとんどいないし、家に閉じこもってるような状態の高齢者は、側から見ると引きこもりの一人として認識されてもおかしくない。

 世間からほとんど断絶して生活するような高齢者(高齢者に限らないけど)は、だから引きこもりのように見られても仕方ないが、しかし厳密には違うのだろう。少なくとも、身の回りのことを一応自分で処理できる人は引きこもりではない。

 引きこもりであるかないかをどこで判断するかは、自立と自律ができてるかどうかにある。毎日生活する上で一通りのことができるなら、世間と断絶し一人暮らしであってもそれは引きこもりではない。

 とはいえ、決して安心するわけにはいかず、もし、何かのきっかけで投げやりな生活をし始め、家の中が少しずつ散乱し始めたら要注意だ。自分を放棄、家がゴミ屋敷になると、後は悲惨な孤独死が待っている。

 いつ社会が崩壊してもおかしくないと思う。それを覚悟して生きなければ。溜め込んだカネなど一瞬にしてただの紙屑になるかもしれず、そのとき頼れるのは我が身だけ。そうなった状況を想像しつつ、それでも生き延びることを今のうちから考える。身体を鍛えよう、健康を維持するだけでなく知識も蓄えなければ、そして、周りの余計な物を処分して身軽でいることだ。