時代の要

 9月が始まった。この時期、私のような平凡な人間は夏が終わり秋の訪れを実感するだけだが、しかし小学・中学・高校生にとって、8月の終わりから9月の始めは一年で一番嫌な時期に違いなく、多くの若者が悶々として悩んでいるのだろう。

 18才以下の若者の死因の最多は自殺で、その発生日は8月31日が突出して多いらしい。だが別にそれは不思議でも何でもなく、そうなる原因は本当によく分かる。私も嫌々学校に通っていたかつての辛い日々を思い出す。今現在、こうして生きていられるのも、単に運が良かっただけだ。

 不登校を含めた「引きこもり」の増大が社会問題化して、世間の目は引きこもる人々に対して随分冷たい。しかし、考えようによっては、引きこもる彼ら彼女らは、現状の社会に対し口を閉ざしつつ異議を申し立てているかのようだ。

 かつて労働組合が強かった頃はストライキが頻繁で、労働組合は人々の生活を維持・向上させるために頑張った。時代は変わり、労働組合の組織率はどんどん低下、それどころか会社側と一体化し、時の権力に追従する始末。弱者は益々弱い立場に追いやられてしまっている。

 ある意味、引きこもりとは非暴力・非服従を貫く、今や労働組合に代わる、幅の広い異質の抵抗勢力なのかもしれない。組合の闘争は団結していたが、一方、引きこもりは孤立している。両者の姿勢は真逆のようだが、社会に問題提起するという意味では共通だ。

 それぞれの時代には「要」が存在し、それなりに役目を果たすのだろう。労働組合が弱体化した現在、じつは繊細で感受性が強く自省に明け暮れる「引きこもり」こそが今の時代の要なのかもしれない。

 人は誰でも考える「何のために生きるのか」。簡単に答えを出すことなどできるはずがなく、もし正しい具体的な解答が出たとすれば、それこそが最も怪しげとなる。歴史上、どんな分野でも重要な役割を担って来たのは内省的人間だった。何のための人生? 何のための社会?