「ふつう」ってなに?

 大抵の人がさりげなく口にする言葉に「ふつう」がある。「自由」や「平等」などと違い、訴える力が希薄なこの言葉にはなぜか人々を安堵させる要素がある。

 しかし、考えれば考えるほど「ふつう」は不思議な言葉だ。そもそも「ふつう」とは一体なんだろう。その言葉に対して確立された定義などないし、誰もがただボンヤリしたイメージで使用してるに過ぎない。

 広辞苑で調べると「①ひろく一般に通ずること。 ②どこにでも見受けるようなものであること。なみ。一般。」日本国語大辞典では「①ごくありふれていること。通常であること。また、そのさま。一般。なみ。②広く一般に通じること、または通じさせること。また、ある範囲内の物事すべてに共通し、例外のないさま。」

 日本国語大辞典の方がやや詳しく記述されているが、どちらも似たような内容で、そんなものかなぁとは思うが、しかし全く納得できない。なぜなら私は、まさに辞典が説明してる、すなわち「一般に通じること」や「ごくありふれていること」とは一体何か? を知りたいのだから。

 あらためて「ふつう」について思いめぐらすと、それがついつい「平均」や「平凡」のイメージと結びつくかもしれないが、じつはそれらとはまったく違う性質のものであることに気付く。

 私なりに「ふつう」を定義するなら、「個性が違う一人ひとりの人間が、それぞれの人生を歩み、それらを水平で対等な位置関係から互いに認め合うこと」になるだろうか。

 「関係」と書いたのは、人間生活は人と人との関係で成り立つからで、それを無視するわけにはいかない。少なくとも、見かけが皆と似てるとか、大多数とか、「ふつう」はそういう意味ではないだろう。「皆と違うこと」それこそが当たり前の、一般に通じる、ごくありふれた「ふつう」なのだと思う。

 世界を見渡せば、皆と違う関係性を認め合う状況とは正反対。大国から小国まで独裁者もどきが跋扈、人々から個性を奪い均質化し、従順させようと企み、絶望的になる。世界の現状はふつうからほど遠い「異常」である。