国境を超えて

 私は朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)のような独裁体制は嫌いだし、嫌いどころか間違っていると思う。しかし、いくら独裁体制が嫌いでも、そこで暮らす住民が嫌いなわけではない。どんな体制の下の人々であろうと、私たちと同じように、飲み食べ、眠り、用を足し、遊び、恋愛や喧嘩をしているだろう。

 国や人種や宗教がどんなに違っても、同じ地球上で暮らす人間は根本において皆同じ、だから私は世界中の人々と仲良くしたい。言語や民族や生活習慣が違うのは多様で豊かな文化の証明だし、それはむしろひとり一人の人間の心を豊かにする貴重な地球上の財産だ。

 朝鮮のような体制に比べれば、日本がどんなに豊かで優れた民主国家であるかと自慢したがる人々がいるが、しかしこれからの日本の方向が強靭化のため体制側による民衆への管理・監視・強制へとさらに進むなら、日本と朝鮮の差などほとんど無くなる。

 日本や朝鮮だけでなく、アメリカ合州国も、ロシアも、中国も、フランスやイギリスやドイツの欧州諸国も、アジア諸国も、アフリカ諸国も、中東諸国も、中南米諸国も…国家体制は人々を常に統制したがる。だから、体制権力と民衆との関係性にこそ問題の本質があるはずなのに、体制権力はいつでも国家同士の問題へとすり替えようとする。

 私たち一般大衆は本当に洗脳されやすい。マスコミが垂れ流す報道は、国や人種や宗教の対立構図を煽るものばかりだから、問題の多くがついつい国家同士の間に横たわるかのように錯覚させられる。国家ほどいい加減(悪い意味で)な存在はないのだ。歴史を振り返れば不変の国境線などありえず、どんな国家も栄枯盛衰を繰り返し、消滅したり新たに誕生したりしている。

 ところが、体制権力と民衆、すなわち支配する側とされる側との構図は大昔からちっとも変わらない。私たちが気をつけなければならないのは権力の暴走と圧政であり、国家という幻想に惑わされないことだ。

 時間や場所に束縛されないインターネットがこれほど発達したにもかかわらず、蔓延するネット右翼のように、むしろインターネットを利用して国家体制に閉じこもり差別を拡散させているかのよう。結局、いざとなったとき国境を超えてゆくのは、洗練されたデジタルより、想像力を駆使する生身の肉体という無骨なアナログなのかもしれない。