地平から

 仏教も、キリスト教も、イスラム教も私は信じるし、なによりも私は無神論者である――この姿勢は矛盾するだろうか。矛盾すると思うならそれは高所から物事を見ているからで、この世界の最も低い場所から物事を見つめるなら決して矛盾しない。

 高層ビルのような巨大建造物を人類は昔からいくつも作ってきた。だが、どんな人間もそれぞれの頂点に同時に立つことはできない。A、B、C、とそれぞれ違った高所から同時に世界を眺めることはできない。Aから見える風景とBから見える風景とは違うし、Cから見える風景はさらに違う。だが、ABCを根底から支える地平の位置から見れば、同じ風景となる。なぜなら地平はABCそのものでなくとも、しかし地平はABCに通底しているからだ。

 上に向かってなにかを作り始めた途端、A、B、C、という違った実体にそれぞれが変貌してゆく。

 宗教も、哲学も、あらゆる思想も、それらが構築され複雑になればなるほど強固な建造物と化す。そうして次第にそれらから柔軟性が失われてゆく。一個の人間を考えても同じことが言えそうだ。「私」にこだわることは私が建造物と化し、こだわりつづければつづけるほど強固になってゆく。それはだれも逃れようのない呪縛のようである。

 地平からABCを見つめてみよう。

 建造物が高くなること自体を真っ向批判するつもりはなく、大切なのは内部に階段やエレベーターが装備され、それがきちんと機能しているかどうか。上昇するためだけの階段やエレベーターなどありえず、下降の役目も果たしてこそそれは有効活用される。高所を目指すだけでなく、一番低い場所にも降りてみること。上昇と下降を繰り返し、できるだけ地平から周囲を見つめようとすること。
 
 階段やエレベーターをいかに上手に利用できるかどうか。とはいえ、内面の階段やエレベーターは外から見ることはできず、それが装備されているかどうかさえ分からない。