終わりの始まり

 「終わりの始まり」という言葉を最近多く眼や耳にするようになった。特に、威張っていた者が凋落の兆しを見せるときよく使われる。ロシアの総選挙でプーチン氏率いる統一ロシア議席数を大幅に減らしたり、読売新聞の渡辺恒雄社長が醜態を晒したりすると「○○の終わりの始まり」とキャッチコピーが踊る。

 自民党から民主党政権交代したが、政権内のゴタゴタから僅か2年ほどで政界再編が確実視され「民主党政権の終わりの始まり」というわけだ。

 勢力が弱くなると「終わりの始まり」だが、なにもこれは政治や権力の話だけではない。私たち人間に限らず生物全般に言えるが、この世に生を授かった瞬間から死に向かって進行するわけで、すなわち私たちの出発点そのものが終わりの始まりである。

 生あるものは必ず死を迎えるし、栄えるものは必ず衰退する。こんなあたり前の事実を私たちはしっかり自覚しなければと思う。時間の流れとして「始まり、そして終わる」が普通の感覚だが、始まることは既に終わりを内在しているのだ。終わりを自覚できないまま生きるとしたら、いずれ破滅を招き悲劇を演じることになる。

 もっと深く追求するなら、私たちの生とは自ら生まれたのではなく他者(母、父)からの生であり、死も自ら死を選ばなければ他者(病気、老衰など)による死である。すなわち、無理やり「始めさせられ、殺される」のが時間の流れの人生であり、それは操り人形の人生と言えなくもない。操り人形の糸を断ち切るためには「終わりの始まり」を自覚することが肝心だ。

 さらに、「終わりの始まり」を自覚するだけでは、もちろん不十分だ。古い操り人形の過去を終わらせることで、新たな人生を自ら歩み始めなければ意味はない。

 人生とは何だろう? と考えたとき、あたり前のように「始まり終わる」のではなく、次の段階として「終わりの始まり」を自覚し、そして「終わらせ始める」生き方こそを問わなければ、と思うのである。