自殺について

 「自殺」について考える。ここで言う自殺とは、病気や失恋や借金などを苦にした自殺ではなく、芥川龍之介の「ボンヤリした不安」による自殺のことである。

 私は「自殺」を肯定も否定もしない。自殺もひとつの自己表現だ。今現在、自殺はしたくない、なるべく生きつづけたい、と私は正直に思う。だが、先のことは分からない。いつの日か、何かの事情で絶望した私は自殺するかもしれない。

 「異邦人」や「ペスト」などの作品で有名なフランスの小説家アルベール・カミュが確か「人生は生きるに値するかどうか、ただそれだけだ」と述べたらしいが、カミュの言葉には人生への問い?が要約されている。

 生きるに値する人生かどうか、もし値しないと判断したら自殺する可能性は高くなるし、価値があると思うなら前向きに歩むことができるだろう。しかし私には、生きる価値があるかどうかで判断するのは浅はかなような気がしないでもない。生きる価値を求めるよりも、むしろ生きる価値など元々ないものとして出発した方が気楽だ。

 人生は生きるに値しない。だからこそ、どうせいつか死ぬのだから、もうしばらく生きてみようか、と開き直ってもいい。

 未知の領域に無理やり放り出された人間は悲嘆にくれる。しかし、だからといってその場で自ら命を断つのは早計だろう。あの地平線の向こうには何があるか、覗いてみたいとの意識がちょっとでも芽生えたなら、もう少し生きてみようじゃないか。

 それにしても、つくづく人間は弱い存在だ。自由や平等、戦争と平和、政治・経済・・・等々、難しいことを普段からエラそうに口上を述べても、歯痛や下痢に襲われると、ただそれだけでうろたえオロオロするばかり。自分の身体に異変が生じると、自由も平和も高尚な人生論もどこかへブッ飛んでしまう。

 他人や社会のことなど関係ない、いざとなると結局は自分のことがいちばん心配なのだ。生身の肉体と共に人間は生きるしかないのだから仕方ないか――。「人生は美しい」とか「人生は素晴らしい」なんて、そんな浮いた言葉を軽々しく口にしたくない、とつくづく思う。