充満する現状維持

 7月4日に参議院選挙が告示され、投票日は21日に決まった。選挙結果はどうなるか。しかし、結果以上に私は投票率の方が気になる。

 直近のアンケートでは「必ず選挙に行く」と「選挙に行くつもり」、この両者の割合が前回に比べかなり下がっているという。ひょっとして投票率は過去最低を更新するかもしれず、そうなれば与党が大勝する可能性大ということ。

 自民党公明党の連立政権はデタラメで酷いの一言だが、一方で各野党も人々を惹きつける魅力に欠けるため、結局誰がやっても同じと思われてしまう。有権者は益々政治に無関心となり、それがより深刻な問題として社会に蔓延することになる。

 テレビやインターネットを通してマインドコントロールされ、月に本を一冊も読まず、ただ流されるだけの日々を送る人々。そんな彼ら彼女たちに少しでも政治に関心を抱いてもらにはどうすればいいのか。様々な未来社会の姿を提示し、政治に参加しやすい雰囲気作りをどうすべきか、それが日本における最大の課題のひとつかもしれない。

 人間は元々保身的だから、たとえ貧乏で毎日の生活が苦しくとも、それがしばらく続き慣れてしまうとなぜか安定した気分にはまり、もうそれだけで周囲の環境の変化を嫌うようになる。自ら変わろうとすることが億劫となり、だからなんとか極力現状維持を図ろうとするのだ。

 ところがその現状とは川の流れのようなもので、じつは刻一刻と辺りは変化してるにもかかわらず、人々はその流れに全く気づかず、周囲は湖面ではないかと思い込んでしまっているかのようである。現状は常に変化するが、人々は現状維持とは変化しないことだと勘違いしてしまうのだ。 

 流れに身を任せれば、流されてることすら気づかない。みんな楽をしたいから、操られるまま、統制されるままになる。北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)の状況は決して特殊ではなく、正に私たちの周囲に充満している。こうして現状維持が続くことで、日本の近未来は中国や北朝鮮のような独裁的統制社会になってゆく。

紫陽花

 7月である。早くも一年の半分の月日が流れたわけで、それにしても5月が真夏のように暑く、6月の方が涼しかったとは驚くが、この調子だと7月と8月が冷夏になるとの長期予報は当たるかもしれない。

 夏至も過ぎ去り、季節は梅雨の真っ只中。6月の最終週に入った頃からようやく梅雨らしくなってきた。ところで、この季節の花はなんと言っても紫陽花。我が家の玄関の狭い領域にもヤマアジサイが咲いていた。

 「咲いていた」と過去形になったのは、今ではすっかり萎んでしまったからで、梅雨の盛り、街中ではいろんな種類の紫陽花が見事に開花してるのに、なぜだろう。まだ若木で十分に成長していなかったからだろうか。咲き誇る紫陽花の樹々を見ると確かに大きく豊かに茂ってはいる。

 我が家のヤマアジサイはまだ幼すぎるのかもしれず、また来年、さらに成長したときどれだけ咲くのか期待するしかない。

 季節ごとの花々を見るのは楽しいが、綺麗に整えられた鉢植えの花より、手入れもされず道端で咲く花の方に興味を惹かれる。紫陽花は世話などしなくても梅雨になればどこでも勝手に咲くイメージがあり、とても逞しい花だと思う。

 花びらの一つひとつはとても小さいが、それがたくさん集まることで全体の調和を図り見事に安定している。桜のようにあっという間に散ったりはせず、かなりの長期間咲き誇ってくれるのも嬉しい。紫陽花は見事だ。

どうしたらいいんだろう

 23日(日)の朝刊(北陸中日新聞)の一面、「廃プラ 受け入れ 県内 困難」の見出し。記事によると「大都市圏で処理しきれない産業廃棄物として出される大量のプラスチックを、各地方自治体が受け入れるよう国が要請、しかし今のところ承諾した自治体は無い」とのこと。

 あたり前だ、誰も他人のゴミなど欲しいわけないでしょう。自分で出したゴミは自分で処理するのが道理。地方で処理してもらおうなんて大都市圏は虫が良過ぎる、あまりに自分勝手で腹が立つ。

 どうしても原発や米軍基地の問題と重なる。原発は田舎に、米軍基地の大半は沖縄に、ゴミは地方に、というわけで構造はソックリ同じじゃないか。原発は即廃炉、米軍基地はNO!、ゴミは各地元で削減・再利用すべき。

 日本ではどの自治体も廃プラはなるべく焼却するようになったらしいが、これが二酸化炭素を発生させ地球温暖化の大きな原因になっている。一方、世界各地で川や海に捨てられた廃プラはマイクロプラスチックと化し生態系に多大な影響を与え、今現在非常に厄介な問題として人類が頭を抱えてる状況だ。

 ところで21日(金)夜の7時~8時の間、外出中に突然の豪雨に遭遇したが、これにはほとほと参った。いつものようにスーパーへ向かう途中で、豪雨だけじゃなく、強風が吹き、雷鳴も轟き、完全に足止めされ買い物は断念せざる得なかった。

 小降りになってから家に戻りローカルニュースで知ったが、遭遇した集中豪雨は一時間22ミリだっだそうで、私にはもっと降っていたように感じた。もし、これが50ミリだったらどうなったか、想像するだけで恐ろしい。記録的豪雨として最近報道される一時間50ミリ~100ミリがどんなに凄まじいかということ。

 梅雨とはいえ、シトシト小雨が降るかつてのイメージはなく、突然豪雨になったり、スカッと晴れて爽やかになったり、変化が極端で気候変動を実感する。そう言えば5月は真夏のような記録的な陽気が連日続いたし…。

 地球環境を守るため、今後は廃プラを安易に焼却するわけにはいかない、それを川や海に捨てるわけにはいかない、埋めることで大地を廃プラだらけにするわけにはいかない、かといって製造を中止するわけにもいかない…私たちはどうしたらいいんだろう。

歪な社会構造

 標準的な夫婦が老後生活に従来の年金だけでは足りず、さらに2000万円ほど必要だとする金融庁の発表が大問題に。「年金100年安心プラン」を推し進めてきた安倍政権は大慌て、金融庁に責任転嫁して逃げ回っているが、金融庁が発表した数字自体は決して間違ってはいない。

 いや、間違ってないどころか、不足金額はもっと増大するはず。なぜならケガや病気や介護、さらに自宅の修繕・改築などにも相当な金額が必要とされるはずだが、発表された2000万円には含まれていないのだから。

 そして、もっと深刻なのは、若い人を中心に年金未納者が増えていること。派遣労働やアルバイトなどで毎日の生活をかろうじて維持してる労働人口約4割の非正規社員にとり、国民年金の月15000円は大きな負担であり、払いたくても払えない大勢の人が存在する現実。

 仮に、たとえ丸々40年間国民年金を納めても、それでも貰える金額は月にしてたった65000円だから、これじゃ老後にまともな生活などできないことくらい分かる。多少生活に余裕がある人でも、払うだけ損という気持ちなるのは十分理解できる。

 日本には今現在国民全体の預貯金がおよそ1800兆円ほどあるそうだ。少し前まで1500兆円と言われていたからこの何年かで大幅に増えたことになるが、ただその80%を高齢者が抱え込んでるという。つまりそれだけ高齢世帯の増加が予測より進んでるということ。

 あまりに歪な社会構造にお先真っ暗になるが、高齢者の預貯金をなんとか若い世代に回せないか。金持ちのお年寄りは自分の財産を子供や孫に遺産として残すのだろうか。ともかく、富裕層への大幅な増税は勿論、それだけじゃなく社会構造の大胆な政策転換・制度転換を実行しない限り、大地震どころじゃなく、もっと凄まじい形で社会全体が崩落しかねない。

 目先の経済や大企業優先に当てられてきた政策のツケが、いよいよ露わになってきたわけで、日本社会の今後30年間、そしてそれ以降はどうなるのだろう? 経済成長という幻想から皆が目覚めない限り、日本が奈落の底に沈むことは間違いない。

心の奥底に潜む感情

 ひきこもり傾向の人が連続殺傷事件を起こしたり、逆に家庭内暴力を振るうひきこもりの息子を父親が殺したり、そして高齢ドライバーが暴走して歩道の人々を轢き殺したり、さらに、介護施設で腹を立てた介護職員が要介護者を殺したり…と、近頃、悲惨な事件を目にすることが多いが、それらの報道から今現在社会が抱えている問題がハッキリ見える。

 ひきこもりと高齢世代の増加は、今後の日本社会をちょっと想像するだけでとても暗い影を落とす。財政問題とも絡み、本当にこの先どうなるのか。

 ところで連続殺傷を起こした犯人が直後に自殺、そのような事件が時々発生する度、「なぜ一人で自殺しないのか」と非難の声が挙がるが、第三者の立場から冷静に分析するなら、その犯人は一人で自殺する道は選ばなかったことが分かる。

 私もつい「さっさと一人で死ね…」と口にしがちだが、それは表面的で薄っぺら、じつに恥ずかしい浅はかな意見だ。同じ事件を繰り返さないためにも犯人の心の深層にメスを入れなければ。犯人だけじゃなく私自身の心の奥底にもメスを入れなければ…。

 どんな人も「負の感情」を抱えている。そんな感情を何とかして軽減、少しでもプラスマイナスゼロにしたいと思うのは自然だろう。何かを失敗して負け犬の烙印を押される人は多いが、その中でも特に感性の敏感な人は、心の奥底に復讐の感情を煮えたぎらせたりもする。そして、その感情が爆発したとき最も悪い結果を招く場合がある。

 不幸だと思い込んでしまった本人は「なぜ自分だけが…」と落ち込み、だから誰かを巻き添えにして不幸の平等化を図りたがるのだが、しかしこれこそ悲劇を産む要因、不幸の連鎖。そんな悪循環を断ち切るためにも、「一人で死ね」などと安易に発言することは慎むべきだ。

 ではどうすればいいのか。「孤立させないこと」「自分だけではない」との共有感をどこかに見つけること、見つけられるような環境を周囲が作ること。とても難しい問題だが、物理的な側面からだけでなく、内面的にもそれが自覚できるなら、たとえ孤独であっても、孤立してないことを知ることで連帯感が必ず生まれる。

三つの最重要「〜ない」

 予期せぬ展開に進むことはままあるが、それも冷静に分析すれば理由があってのこと。偶然と必然は対立する概念のようだが、偶然の出来事の背景には必然の要素が隠れている。

 コンピュータが発達し、インターネットが国境を超える。にもかかわらず、狭心な右翼的思想が蔓延するのはなぜか。IT機器の進歩は、世界を一つにするための有効手段になるはずだったが…。世界が一つになりエリートに支配されることへの拒絶反応、まさにこれこそが人々の心に新たな壁を作り出した。

 分断を図るためにインターネットが利用されるとは、なんという皮肉で本末転倒な現象であることか。現在の右翼的流れは予期せぬ出来事どころか必然だった。科学技術だけで人間の自由と平等を実現させることなどできない、それがつくづく分かる。要は人間の心の問題、新たな哲学が求められる。

 ところで東映で活躍した俳優の菅原文太(1933~2014)は、晩年、政治的活動にも参加、その中でいろいろ発言をしていたが、「戦争をしない」「国民を飢えさせない」この二つを特に強調し、それが最低限の政治家の仕事だと訴えていた。

 その通りで賛同するが、私はさらにもう一つ付け加えたい。それは「社会を刑務所にしない」こと。「戦争をしない」「飢えさせない」「刑務所にしない」以上の三つを中心に政治や経済、すなわち人間社会の有り様を考察したい。

 昔も今も、そして未来にも、人類に横たわる最も深刻な問題とは、端的に言えば「格差・差別が蔓延してる」ということだろう。同じ人間なのに「何故こんなに違うのか?」

 「格差・差別」を完全に解消させるのは、どんな時代であろうと甚だ困難なことは分かる。しかし、それを極力縮小させるため努力するのは、人類全体の発展のためとても重要であることは明白だ。

 「格差・差別」をなるべく無くすため、「戦争をしない」「飢えさせない」「刑務所にしない」それら最重要課題に取り組まなければならないのだと痛感する。私たち一人ひとりが考え、そして身の周りから実践すること。

不思議でしょうがない

 この世で一番不思議な存在は宇宙である。これはもう、誰も否定しようがないだろう。そしてそれと同じくらい不思議な存在が、日々生きている(生かされている)自分という存在だ。宇宙はなぜ存在するのか? 自分はなぜ今ここにいるのか? この疑問の不可思議さはほとんど同一レベルである。

 この世における最も広大無辺な大宇宙と、もうこれ以上分割できない最も小さな自分自身とが、同じように摩訶不思議な存在であるという事実は驚嘆に値する。しかし、よくよく考えれば大宇宙と自分自身には共通項が備わっていることが分かる。

 物事の実態や本質を知るには内側を探索すると同時に、外側から観察しなければ全体像は決して分からない。残念ながら、宇宙の外に出て宇宙を観察することができないのと同様、物理的に自分から遊離して自分を眺めることはできない。

 途方もない無限の大宇宙の外に出るなんて、誰もが不可能であることくらい理解できる。しかし、自分も同様に自身から脱出できないという事実は、考えてみれば何とも不思議である。

 生身の身体を引きずりながら生きている自分は、顔も、背中も、直接見つめることができない。鏡を通してそれらを見ることはできても、その像が本当の自分かどうか随分怪しい。完全なる鏡など存在せず、それがちょっとでも歪んでいれば、映った自分は本当の自分ではない。

 すべての人は永久に本当の自分を自らを通して知ることはできない。しかし、自分は自分以外の他者を直接見ることならできる。だから自分(人間)は他者を通してのみ自分自身を知るしかない。人間にとって内なる他者性が問われるのはその為だ。

 どんな高性能な探査機や望遠鏡が発明されようと、宇宙は永遠の謎として存在しつづけるだろう。だが、人間は他者性の概念から「人間とは何か?」の謎をいろんな領域でかなりの部分が解明されてゆく可能性はある。