悲観論を乗り越えたい

 まるでブラックホールだ。今現在、日本だけでなく世界全体が、渦を巻いて奈落の底へ吸い込まれているかのよう。世界のトップがトランプや習近平プーチン安倍晋三金正恩、ネタニヤフやジョンソン(英国の新首相)みたいな連中ばかりだから救いようがない。カナダのトルドー首相のようなまともな政治家もいるが、全体を俯瞰すると正気が狂気に弄ばれてる。

 包丁は美味しい料理を作るための真っ当な道具だが、それが台所から離れて所構わず振り回されるとしたら危険極まりない。ところが、そんな狂気が日本でもしょっちゅう起きる。

 直近では、愛知で開催されていた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」がたった三日間で閉鎖されたこと。理由は脅迫のメールや抗議の電話が相次ぎ、主催者側は危険な状況に陥ることを恐れ閉鎖を判断。

 正気の芸術祭が狂気の脅しに屈したわけで、標題通り今現在の不自由な日本の実態を「表現の不自由展」の閉鎖が証明してしまった。名古屋の河村市長は主催者側に謝罪を要求したらしいが、全く逆、脅迫や抗議で閉鎖に追い込んだ輩に対してこそ強く憤り謝罪を求めるべき。だが、残念ながら河村市長の言動に今現在の日本の行政の姿勢が集約されている。

 こんな本末転倒な状況を見れば悲観的にならざる得ないだろう。現実は厳しく、物事の詳細を知れば知るほど暗澹たる気持ちになる。ただ悲観的になるのは自分が何もできない場合であり、自分が行動し、少しでも社会に変化を促す事ができるなら希望は抱ける。安易な楽観論は禁物だが、悲観論に浸ってる場合じゃない。

 歴史を拓くと言えば大袈裟だが、少なくとも「自ら生きる」ためには、悲観論ではなく、何でも良いから楽観的になることが重要だと思う。左翼やリベラルの意見は重要で私は概ね賛同するが、とはいえ現状を批判することで、あまりに悲観的な論調に走り過ぎてるような気もしないではない。

 これからの社会を支える若い世代が保守的になったのは、ひとつの要因として左翼・リベラルが楽観的ではないからで、厳しい現実の中でも楽観的な要素を見出し提示しなければと思う。誰だって脅迫や抗議を受ければ落ち込むが、そうならないための社会の仕組みを再構築できたらいい。その一つの手段がもっと楽観的になること。世の中に悲観して幸せになれる人などいないのだから。