何を質問していいか分からない

 学校の教室には「できる子」と「できない子」がかならず共存している。勉強のできる子、運動のできる子、勉強も運動もできる子。一方、勉強のできない子、運動のできない子、勉強も運動もできない子。いろんな子供たちで入り交じるのが教室だ。

 勉強も運動もできる子はどうしても目立つし、そんな子はたいがい人気者になる。一方、勉強も運動もできない子はどうしても片隅に追いやられ、そんな子は残念ながらだれからも疎んじられるようになる。

 先生も吸収の早いできる子にはやりがいを感じるから、授業はできる子を中心に展開してゆくようになり、できない子はだんだん無視され邪魔者扱いされてしまう。

 さて、国語でも数学でも英語でも…どんな科目でもそうだが、先生が説明し終わってから「ここまでで何か質問は…」と生徒に促すことが授業中よくあるだろう。そんなとき手を挙げる生徒がいなくて教室は一瞬シ〜ンと静まり返り、ちょっと間を置いてから、先生は全員が理解したと判断し次の段階へと進んでゆく。

 ところで授業中に生徒からの質問が一切ない状況とは、いったい何を意味するのか。生徒全員が問題を理解したと判断していいのだろうか。まさか! できる子とできない子が共存する教室でそれはありえず、できる子は理解したから手を挙げなかったのだし、できない子は「何を質問していいのか分からない」から手を挙げられなかったのである。

 先生から質問を促されても何を質問していいのか分からない、これこそができない子の証であり、先生もじつはそのことを知っているのだ。だが時間に追われる先生はできない子と長く付き合ってはいられず、授業の消化を優先して前へ進んでしまうのである。

 「何を質問していいか分からない」できない子を置き去りにする、あるいは切り捨てる。これこそが教育現場が不毛になる大きな原因だと思う。なぜ何を質問していいか分からない要因をもっと探ろうとしないのか。それができなければ、表面を取り繕う中身がカラッポの教育だけが蔓延することになる。