できない子にこそ将来性がある

 「何を質問していいか分からない」のができない子の特徴だが、なぜそうなるかといえば考え過ぎてしまうからだ。例えば「2+3=5」はあたり前で、それを基礎に数学は成り立つが、できない子はそれがなぜ「5」なのか考えてしまう。

 もっと突き詰めるなら、「2」をなぜ「ふたつ」と数え、「3」をなぜ「みっつ」と数えるのか、いったい誰がそんなことを決めたのか、何事も不思議でしょうがないのである。だからやすやすと前へは進めない。できない子は意識せずとも無意識にそれらを抱え込む。

 小学校高学年や中学生、ましてや高校生にまでなって、なぜ「2+3=5」なのか、そんなあたり前のことを質問すれば周りから笑われたり変に思われたりして、だから質問できないのだ。こうなるともはや哲学的命題の領域である。

 「2+3=5」だけでなく、国語でも英語でも、どんな科目の内容でもできない子は「こんなもの」という前提そのものに疑問を抱く。

 できる子や先生にとって、できない子は反応が遅くハッキリしない鈍感な子にしか見えないだろう。だがまったく逆で、じつは黙考せざるを得ない状況を自らつくりだす豊かな感性をできない子は持っているのだ。鈍感どころか、できない子はあまりに感受性が強く、そして深く考え込むから、一歩前へ進むことがなかなかできない。

 できない子のこうした特徴をそれなりに理解できる先生はほとんどいないようだ。先生も人の子だし、ましてやできる子だったから先生になれたわけで、どうしてもできる子の視点から物事を見つめがちである。

 できる子は要領が良く、「こんなもの」という前提をそのまま受け入れ、あまり深入りせずにさっさと前へ進みたがる。こうしてできる子はどんどん勉強ができたおかげで、それなりの仕事に就き、それなりの収入を得て、それなりの生活を送る。だが、ハッキリ言ってできる子の大半は並の水準で終る。

 天才的な能力を発揮し、もの凄い仕事を成し遂げるのは、じつは「できない子」である。できない子がどんなに感性豊かで思慮深いか、世間はまるで分かっちゃいない。これまで学校や社会は数えきれぬほど多く「できない子」の才能を潰してきた。それが本当に残念でならない。