原発と社会構造

 今年2月9日に実施された東京都知事選で敗北したとはいえ、小泉・細川両氏は意気軒昂、脱原発を目指す「自然エネルギー推進会議」を一般社団法人として発足させた。政治色を排し、脱原発の幅広い勢力の結集を図り国民運動として働きかけるらしい。両氏の志に賛同する多くの知識人や文化人が応援団として結集している。

 私も脱原発・反原発だから興味深いし、応援したいという気持ちはあるにはある。だが、もうひとつ乗り気になれない。なぜか。それはいくら脱原発が実現しようと、社会構造が従来のままでは意味はないと思うからだ。果たして、小泉・細川両氏はどこまで現実の社会構造にメスを入れようとしているのか、私には見えない。

 原発が無くなっても、大企業がトップで威張り、その下に中小零細のどこまでもつづく縦型下請け社会構造が変わらなければ、いくら自然(再生)エネルギーで需要が賄われようと、大多数の労働者の置かれた悲惨な状況は一向に改善されないだろう。

 1979年に刊行された堀江邦夫氏の「原発ジプシー」などを読めば分かるが、原発を支えているのは昔も今も末端の名も無き不安定労働者であり、日本の原発とは砂上の楼閣なのだ。そんな、砂上の楼閣だからこそ、史上最悪の東電福島第一原発事故が起きてしまった。

 原発を無くせば社会構造が変わるかといえば、残念ながらそうはならない。原発は社会構造の縮図に過ぎず、原発以外にも縮図はいくらでもあり、このままでは原発に替わる新たな人工物が君臨するだけだ。脱原発と並んで社会構造を変えなければならない。社会がもっと公平で開かれるようになるなら、自ずと原発に疑問を抱く人々は増えるし、多くの問題点も認識され、脱原発への道は容易になると思う。

 現実社会の顔として原発は存在するが、しかしいくら顔を替えても、首から下の中身が変わらなければ表面を取り繕っただけで終る。小泉・細川両氏は原発という顔を替えることには本気なのだろう、しかし首から下の社会構造にどこまで関心を寄せているのか。

 たとえ原発が無くなっても、私は刑務所のような社会には住みたくない。