悟るということ

 よく宗教関連を中心に「悟り」の言葉を見たり聞いたりするが、そもそも「悟り」とは一体何だろう。

 私が思うに、悟りとは自らの無知と無力を自覚すること。自分が世の中を知って自惚れる、あるいは自分が他者より優秀だと自慢する、それらの立場とはまるで正反対。無知で無力なのだから悟りとはある意味とても恥ずかしいことである。だが、であればこそ悟りが新たな出発となり、未知の領域を目指す源となる。

 年を取りいろんな経験を重ね、それなりに自分は社会を知り、自分は少し偉くなったと勘違いし、それでついつい同年輩や年下に向かって説教や教訓を垂れたくなるが、しかしそんな輩こそじつは修行が足りないのである。

 悟ることで人は謙虚にならざるを得ない、なぜなら無知で無力なのだから。だから明日も生きようとすれば、いつも失敗する、恥をかく、うろたえる、これらは死ぬまでつづく…。知ったかぶりして高飛車に訓示を垂れ、それで自らを誇らしげに語るような人物など信用に値しない。

 それでも人は、年を取りそれなりに経験を積むと他者に対して説教や教訓をどうしても垂れたがり、それで自らを慰めようとするが、しかしこれは極力避けた方がいい。やたら訓示を垂れるようになった時点でその人の人生はもうお終いではないかと私は思う。なぜなら得体の知れぬ個人しての人間独自の魅力が、そんな「大人の人間」からはほとんど感じないから。

 安易に説教や教訓を垂れるような大人にはなりたくない。それは人間の生き方としてあまりに後ろ向きであり、それは未来を閉ざし、過去に縋り付こうとしてるようにさえ見える。どんなに年を取っても前を向くことは止めたくたい、ちょっとカッコ良過ぎるが、すなわちこの姿勢は未知の世界に対し常に興味津々ということ。

 未知の世界に対し常に興味を抱くなら、どんなに年を取ろうと、失敗するし、恥をかくし、事ある度にうろたえるだろう。それでいいのだ。それでこそ人々から共感を得られ、好かれる要因にもなる。

 じつは、悟るとは逆説を理解できるようになること。言い換えるなら自らの心の纏いを脱ぎ捨て、自分の裸身を直視することでもある。裸になるのはとても恥ずかしいが、しかしそれができる為には本当の勇気がいる。これこそが、真の意味で人間にとって最も重要で偉いことだ。

「私」とは何だろう?

 「私」という一人称で語ることは重要で、私を大切にできない人が他者に対しても大切にできない…とか、公的な客観性より私的な主観性こそが表現や報道には重要…とか、いろいろ見たり聞いたりして、まったくその通りだと思うが、しかし、それらの主張はあまりにまともであるが故に物足りなさも感じる。

 肝心なのは「私」がどちらの方を向いているか。じつは「私」とは頼りなく不安定で常に右往左往する存在であり、そんな「私」はいとも簡単に何かに染まったり掠め取られてしまう。そんな脆弱な「私」が私を維持するためにも、だからこそ方向性が問われる。

 国や企業や組織、そして人種や宗教に隷従するだけの私にならないため、私の内部では常に他者を意識しつづけなければと思う。つまり私自身の他者性が問われる。私であると同時に他者でもあるということ。この他者に限界はなく無限の領域に広がりつづける。なぜなら他者とは一人ひとりの個人であり、過去・現在・未来を貫くから。

 「私」にこだわるあまり限界の領域に自ら埋没しないよう、十分気をつけなければならない。しかし、残念ながら日本は相変わらず「私」より「公」が根強く、普通の「私」すら未だ確立されておらず、それで「私」にこだわりたくなるのだろうが、もっと足元と先を見ることだ。

 対等な人間関係を築くことは口で言うほど簡単ではない。そのもっとも大きな妨げになるのは、人それぞれが持ってる「私」というプライドなのだと思う。学歴、肩書き、資格、社会的地位…それらはどんな人にもついて回るし、社会を生き抜くためには必要かもしれないが、しかし、いざ他者と対面するとき本当はそれらを消去すべきだ。

 ここで言う「消去」とは人間的に裸になるということ。だが、これが甚だ困難であり、人間として最も困難なことかもしれない。それができないから、いつも「私」は相手を人間性よりも着飾った服だけを見て判断してしまう。それでは本質を見誤ることになる。そうならないため、まずは自らの虚飾の服を脱ぎ捨て、自らが裸にならなければ。

 心や頭に何重も纏わりついた虚飾を脱ぎ捨て、自ら「裸になった私」を直視する。それはある意味とても恐ろしいことかもしれず、でもそれは人間として最も勇気ある行為だ。だからこそ、それができた次の段階では人間や社会に対する見方が大きく変わることは間違いなく、新たな世界を目指そうとする力の源泉になるだろう。

読書のすすめ

 図書館の存在は本当にいい。図書館に所蔵されてる書籍は何十万冊もあり、それらが全部私のものだと思うと嬉しくてしょうがない。もちろん私だけのものではなく、皆のものでもある。ともかく、自由に貸し出しできる図書館は素晴らしいの一言。

 ところで統計によると、ひと月に本を一冊も読まない人が、なんと全体の半数近くもいるというから驚く。一日に一冊読破できる人なんて稀だろうが、週平均二冊読む私のような人間も少数派なのだろう。

 人が100年生きたとして、かりに一日一冊ずつ本を読んでも、たった36500冊。一般の図書館には数十万冊の書籍を抱えている。一生かけて読める本の数はどんなに多く見積もっても、一つの図書館が所蔵する一割程度しか読めないということ。

 映画もしかり。たとえ映画好きでも、万を超える作品を鑑賞できる人は稀だろう。音楽作品は時間にして短かく遥かにたくさん観賞できるが、しかしそれでも500万曲以上聴くのは到底不可能(AppleAmazonは6000万曲以上を配信)。

 以上の現実を知るにつけ、なんだか寂しくなる。なんと人生はちっぽけなのか。人生はあまりに短か過ぎる。数をこなせばいいというわけではないが…。問題は作品を通して世界の深淵(真理、事実)をどこまで知ることができ、さらにそれを自分の人生にどこまで役立てられるか。

 高齢者に関する本を読んでると、定年後に何をしていいか分からず、ボーとしてテレビを見たりお茶を飲んだりするばかり。時間を持て余し、一日がとても長く感じてしょうがない、そんな高齢者が嘆く姿の記述を目にするが、私には信じられない。

 私には一日が瞬く間に過ぎてゆく。やりたい事がたくさんあるのに全然消化できず、何をしていいのか分からないどころか、分かってるのにそれが出来ない自分の能力の無さに嘆き、明日こそと自らを慰めてばかりの毎日である。

 年を重ねれば身体を動かすことに億劫になるのは仕方ないが、であればこそ気軽に携われる読書は認知症予防にもなるし最適ではないだろうか。

整理整頓のすすめ

 引っ越してから新居をより住みやすくするため、なるべく物を置かず、必要最低限を維持しようとしている。しかし整理整頓のため本棚は必要で、なぜなら本や書類の平積みほど乱雑な印象はないからだ。

 どうしても捨てられない本は私もかなり所有して、それらをケースに収納し押し入れに仕舞い込んだりするが、これはあまり上手な整理の仕方ではなく、別の用途で押し入れはもっと有効に活用すべきだろう。

 本はやはり本棚に並べるのが一番見栄えがいい。そういうわけで新たに本棚が欲しくなりAmazonなどで調べてみた。種類は多いが、大きさや形状や色など室内にマッチした品がなかなか見つからない。無駄な買い物はしたくないので本棚が本当に必要かどうか、もう一度家の中を見回す。

 節約したいのでなるべくお金は使いたくない、けれど整理整頓はしたい、だからオシャレで丈夫でしかも安価な家具や用品は欲しい、しかしそれらはかなりの容積を占める。人生においてそれほど深刻で大袈裟な案件にはなるはずもないが、場所の問題からこのジレンマに陥っている一般家庭は多いのではないだろうか。

 思い切って処分すればいいのだが、長年携えてきた物には愛着も湧くし、もう使わないことが分かっていても簡単には捨てられない。だから本棚や収納ケースを揃えてそこへ並べたり仕舞い込もうとする。

 とは言っても、本棚や収納ケースばかり増えて、住居空間が狭くなるのはやはりイヤである。一度、冷静になり部屋や押し入れのレイアウトを見直せば、意外にもかなりの空間の無駄使いをしてることを発見できるかもしれない。

 かなり前だが、年配の女性から言われたことを思い出す。「押し入れや棚の奥に仕舞い込んで、もし丸一年間そのままの状態なら、それはもう一生使わないからサッサと捨てたほうがいいわよ」また使うかもしれないと迷うこと事態、もう二度とそれのお世話にならない証、とも言われた。整理整頓上手になりたい。

年明け早々

 カルロス・ゴーン前日産社長の日本からの逃亡劇や、米国とイランの緊張など、2020年は最初から怪しげで不穏な空気が世界に充満する中、私の生活圏では表向き何とか平穏無事だった。しかし水面下で何が起きてるのか分からない。人間社会も自然界も突然の大事件や大災害に見舞われるかもしれず、私自身も明日どうなるかまったく予測不能である。

 今回も天候のことを書く。年明け後も朝から澄んだ青空が広がる日が多く(ここは東京か?)、まったくもう、これが金沢の真冬とは信じられず、とうとう朝刊一面に「異変…雪のない1月」との見出しが載ってしまった。年配者にとり暖冬はありがたいが、しかし、こんな状態が続けば、食品、衣類、娯楽…等、各産業に必ず影響を及ぼし、大きな経済損失となるだろう。

 気候変動(地球温暖化)はもう避けることはできず、ある程度の気温上昇は覚悟しつつ人類は社会整備に取り組むべきだ。産業革命以前に戻ることなど不可能なことは誰もが分かっている。地球氷河期説が事実だとしても、何千年も何万年もかけ少しずつ気温が低くなる自然現象と、200~300年で2~3℃という急激に温度上昇させた人為的行為とが中和し、プラスマイナスゼロになるはずがないのだから。

 さて、どうなることかと心配した米国とイランとの全面戦争はとりあえず回避されホッとしたが、実際両国とも利益のない戦争など忌避したがっており、今現在、互いに自制しながらギリギリの段階で留まっている。イランはイラクに駐留する米軍基地にミサイルを発射したものの、事前に関係筋へ連絡していたようで、米軍基地周辺はいくらか破壊されたものの、兵士などは避難できて人的被害はなかったらしい。

 それにしても米国トランプ大統領のイランのスレイマニ司令官殺害を発端に、イランによるミサイル誤発射でウクライナ旅客機が墜落したが、何の関係もない犠牲になった大勢の人々は気の毒というか運が悪いとしか言いようがない。イランの責任は重大だが、トランプ大統領の姿勢も徹底して追求すべき。

 ニュース報道では表向きの言説だけを鵜呑みするわけにはいかず、言葉を吟味し、書かれていない行間を読める能力が求められる。物事には必ず裏があり、さらに裏の裏があることを想像する。とはいえ、裏の裏の、さらなる裏までを想像(もはや妄想の世界)し過ぎてくれぐれも陰謀論に嵌らないよう注意はしたい。

それでも生きなければ

 2020年度の幕が開けました。新年、あけましておめでとうございます。年明け後の天候が危ぶまれましたが、寒いとはいえ朝から陽が差すこともあり、まずまずです。かなりの雪が降るはずだったのに天気予報は大外れ。たとえ雪は降っても積もりそうにありません。今年も雪の無いお正月を迎えたので、北陸金沢ではこれが普通になるのでしょう。

 正月三が日は昼間からお酒を飲んで雑煮を食べ、その後は届いた年賀状に返事を書く。これが毎年のパターンですが、年賀状の届く枚数が年々減りつづけ、いずれ誰からも届かなくなるかもしれません。それでいいのです、年賀状はあまり好きじゃありませんから。

 今年はカレンダーの関係から世間が本格的に始動するのは今日6日の月曜から。それで私も正月気分を延長、5日の日曜まで昼からお酒を飲みながら雑煮を食べてました。年末年始など、じつは私は物事をハッキリ区切るのは好きじゃなく基本的に普段通りの生活をします。しかし全く意識しないわけじゃなく、大袈裟にしたくないだけで、世間に逆らうように完全に無視するのも嫌いです。

 さて、今年最初の朝刊(3日)の社会面で世界最高齢の女性の記事が目に入りました。福岡市に住む田中力子(かね)さんという女性でなんと117歳。2日に誕生日を迎えたそうで、元気に喋るし食事もぺろりと平らげるし、老人ホームでは皆を励ます母親的な存在なのだそうです。

 私の母親は101歳になりましたが、この田中力子さんは本当にスゴイ! 尊敬する日野原重明さんも医者として現役のまま105歳まで生きました。長寿だけでなく元気なお年寄りを見ると勇気づけられます。田中力子さんや日野原重明さんの存在を知るにつけ、私も健康で長生きしたいと強く願わずにはいられません。

 私はこれまで日野原重明さんに倣って105歳まで生きることを目標にしていましたが、田中力子さんを知ってもっと上に修正します。私は健康を維持しつつ111歳まで生きることにしました(笑)。

 ところで、年明け早々、米国とイランで緊張が高まり戦争状態一歩手前になってます。世界中で第三次世界大戦の懸念が噴出し、この先いったいどうなるか不安と危機感が充満。大局的には、戦争、経済危機、格差拡大、人口爆発、自然環境破壊…日本だけ見ても、地震、台風、洪水、少子高齢化…個人的には、怪我、病気、孤立死…、いやはやとんでもないことばかり。ですが、なんとか生きなければなりません。したたかに生きることを学びたいですね。

 

 

ボッチは寂しくない

 昨日(29日)今年最後の日曜日は朝から青空が広がり爽やかだった。だが、大晦日から正月を過ぎてしばらくの期間は雨か雪の予報で、今日(30日)まで暖かく10度を超えていた気温も年明けとともに急降下し一桁台へ、ようやく冬を実感するだろう。

 今月は過ごし易かった。こんな暖かで穏やかな12月は経験したことがなく、手袋もしなかったしズボン下も履かなかったし、さらに就寝時のカイロはこの冬まだ一度も使用していない。冷たい北風は吹かず、金沢特有の「ブリ起こし」は皆無、雷がほとんど鳴らないなんて静か過ぎて気味が悪いほど。

 ところで、年末年始はNHKから民法までテレビ局は特番を組むが、それにしてもつまらない。普段からテレビはほとんど見ない私だが、新聞のテレビ欄を眺めただけで、ゲンナリする。

 くだらないテレビ番組のオンパレードとはいえ、それでも年末を迎えると、なぜかウキウキした気分になるのはなぜか。これは小学・中学の子供の頃から現在まであまり変わらず、しかし年明けと共に高揚した気分が サ~ と引いてしまうのである。だから私は年末がずっと続いて欲しいと願うほど。

 何でもそうだが始まる前の期待する段階が一番楽しいのは間違いなく、旅行でも、イベントでも、休日でも…みんなそう。年末と年始の関係はこれらと似ているのかもしれない。

 先週のクリスマス・イブは街中でそれなりに賑やかだったらしいが、一方「クリボッチ」という言葉が浸透していて、どうやらクリスマスをひとりで過ごす若者たちのことらしく、この「~ボッチ」が増加しているとのこと。

 我が身を省みるなら「~ボッチ」の先駆者だったと自負できる。クリボッチだけでなく、正月ボッチ、お盆ボッチ、休日ボッチ、つまるところ、年がら年中~ボッチだった。大勢でワイワイやるのが苦手、ひとりの方が気楽で好きだからボッチは全然寂しくなかった。

 年末の高揚した気分は薄れるが、この正月もボッチを貫き、読書したり映画を観たりしながら有意義な時間を過ごせればいい。