途方に暮れる

 子供の頃からグズでノロマで、何をやらせても他人よりも遅かった私だが、じつは歳を重ねた今になってもあまり変わりない。物事をテキパキと素早くこなす人を見ると本当に感心する。

 それにしても世の中全体が、政治も経済も、仕事も娯楽も、あらゆる分野でコンピューターの処理速度を競うように「スピード」を求めているかのようだ。「速さ」に価値があり、競争社会で先頭集団に属する人々が勝ち組ならば、私などは完全に負け組だ。学校時代はもちろん、社会人になってからも、そして紆余曲折を経て故郷に帰ってきた現在も、振り返れば、先端にいたかもしれないという意識を抱けたことはたとえ一瞬間でもなかった。

 そんな私でも、じつはやりたいことが山のようにある。食うことや眠ることは生きる基本なので別として、それ以外では「本を読むこと」「映画を観ること」「ジャズを聴くこと」などが挙げられる。読書や映画や音楽なんて誰もが興味を抱くだろうし、私独自の「趣味です」と自慢できるわけではないが、もっとたくさん本を読みたいし、もっとたくさん映画を観たいし、もっとたくさんジャズを聴きたい、と私は常々思っているのだ。

 しかし時間の経つのは早く、どんなに長生きしても消化できる量には限界がある。眼の前に存在する書籍や映像や音源を必死に貪欲に齧っても、膨大な山脈のような作品群のそれはほんの一握りに過ぎない。それを思うだけで途方に暮れる。

 何をしていいのか分からないのではない。やるべきことが分かり、やりたくてしょうがないのにもかかわらず、途方に暮れて何もできない状態に陥ってしまう。

 しかし、ある意味、私は幸福な人間なのかもしれない。大量の知的財産を前にして途方に暮れるなんて贅沢の極みではないか。消化しなければ――と焦る必要はないのだ。開き直ればいいだけのこと。途方に暮れてのんびりするのも悪くない。何もしないで途方に暮れるのも一種の快感に違いない。