ある意味、幸せな人生

 やりたいことが一杯あるのに、なかなか消化できない。映画を観たい、本が読みたい、音楽も聴きたい(特にジャズ)、散歩やサイクリングもしたい。映画と読書とジャズと散歩、もうこれだけで私の人生は満腹になりそうだ。日頃からなるべくそれらの世界に接してはいるが、しかし体験の量が少な過ぎる。

 あれもこれも、と欲張る気持ちばかりが先行して空回り。いろいろ計画は立てるが、実行できるのは10分の1くらいか。欲張るだけで、結局なにもしないまま時間だけが無駄に過ぎてゆく。そんなときは、ただボンヤリと虚空を眺め、途方に暮れる。

 こうして、日々、欲求不満を募らせているが、しかし私は幸せなのかもしれない。なぜならやりたいことが少なくとも自分で分かっているのだから。「何のために生きるのか」とか、「何をしていいのか分からない」とか、私はそういう悩みで悶々とはしない。だから私は、ある意味、とても幸せなのだろう。

 目の前にあるものを、一つずつ消化すればそれでいいのだ。ところが、消化するスピードがあまりに遅いため、大切な時間がアッという間に過ぎ去る。若い頃なら時間はタップリあったはずだけど、年を重ねると残された時間がイヤでも見えてくるからなんとなく焦る。そして、焦れば焦るほど空回りするというわけ。

 一本の映画、一冊の書物、ジャズのCD一枚、それらを死が訪れるまで毎日かならず消化しつづけてもたかが知れた量にしかならない。健脚を誇り、死ぬまで歩きつづけたとしても距離にしたらわずかだ。こんな具体的な計算は人生を矮小化するようでイヤだが、しかし実際問題、残された人生には限界がある。

 物理的に考えるだけなら、人生とは、なんと軽く、浅く、短く、小さいのだろうか。だからこそか、目の前の存在を「選択」しなければ、とつくづく思う。ところが、選んでばかりいると肝心なことを忘れそうだ。

 肝心なこと? それは「余裕」。何もしない余裕綽々な人生があってもいい。これもまた、ある意味、幸せな人生なのだろう…。