支配する側とされる側

 世界は複雑に絡み合い、だからこそ多様性に富み、豊かな文化が育まれ、歴史は彩られ、これは本当に素晴らしいこと。一方で、国や地域、人種や民族、習慣や宗教の違いから、人々は争いに巻き込まれ、悲劇が繰り返されるように見える。だが、問題の本質は複雑な多様性が原因ではない。

 問題は、国や民族や宗教というそれぞれが違うだけの横の関係にあるのではなく、あくまで支配する側とされる側という縦の構造にこそある。すなわち、強者と弱者の対立だ。

 ロシアはウクライナを侵略して支配下に置こうとしたが、それに対しウクライナは抵抗、そこで戦争状態に陥った。一方、パレスチナでの戦争は、パレスチナの地に入植したイスラエルがその一帯を支配しようとし、パレスチナ人から抵抗を受けているという構図だ。

 歴史を探れば様々な思惑が交錯し、安易に善悪は決めつけられないはずだが、世論の多くが国や地域や民族や宗教の比較で解説したがり、本当にそれでいいのかと思ってしまう。それらにこだわると判断を間違える。あくまで支配する側とされる側とで見極めたい。

 ウクライナ戦争とパレスチナ戦争では、ロシアとイスラエルの強硬な権力に対し例えロシア人であろうとイスラエル人であろうと、支配される側の市民であるなら世界中の弱者と連帯し、支配したがる権力には反対の声を上げるべきだ。

 ウクライナ戦争では侵略される側のウクライナの大統領ゼレンスキーは、パレスチナ戦争ではなぜか大量虐殺するイスラエル側に立とうとしている。本当はゼレンスキーは殺される側のパレスチナのガザに生きる人々と連帯すべきと思うが、そうしないのは実は彼がユダヤ人だからで、さらにパレスチナのガザを実効支配するハマスをロシアが支援してるからだろう。

 ロシアが憎いあまりゼレンスキーはパレスチナとロシアを同一視してるのかもしれないが、そんな構図を見てつくづく思うのは、国や地域や民族や宗教にこだわってはいけないということ。繰り返すが、支配する側とされる側とで見ないと判断を誤る。

 いつの時代でも支配したがる権力者は弱者を洗脳し、国や民族や宗教の違いを煽り、敵と味方に分断させて弱者同士を戦わせたがる。国境や民族や宗教を超え、弱者同士は洗脳を解き世界中で連帯すべきである。私とあなたは同じ地球人であることを自覚しよう。