芸術も命も

 ロンドンの美術館に展示されていたゴッホの「ひまわり」に環境保護団体の若者二人がトマトソースをかけ、「芸術と命とどちらが大切か」と訴える騒動が最近起きた。

 このニュースを聞いた途端「ズレ」の感覚が渦巻き、芸術も命もどちらも大切に決まってるじゃないか、と私は心の中で叫んでしまった。芸術か命か、という二分法思考は非常に浅はかだと思う。トマトソースをかける対象が間違ってる。

 1960年代~70年代に活躍し、暴力描写で有名だったサム・ペキンパーという米国の映画監督がいた。代表作として「ワイルドバンチ」「わらの犬」「ゲッタウェイ」「ガルシアの首」「戦争のはらわた」等があり、私は彼の作品の多くを鑑賞している。

 サム・ペキンパーはスローモーションを多用、暴力を刺激的な撮り方で表現したことから、一部の批評家や映画ファンから暴力を賛美してるとの批判もかなり受けたようだ。

 私はサム・ペキンパーが暴力を賛美してるとは思えず、世界中で暴力的な出来事が発生している現実を踏まえ、暴力の事実を彼なりに表現したかったのだろうと解釈していた。そしてある日のこと、彼の作品を鑑賞して怒った一人の平和主義者が、なんと監督に殴りかかり自分の主義主張を訴えたという。

 私はロンドンの美術館での事件を聞いて、サム・ペキンパーが平和主義者から暴行を受けた事件を思い出した。

 そう言えば、かつてテレビの討論番組で有名な司会者が「自由か平等か、さあどっちなんだ」と訴えていたな。自由か平等かじゃなく、自由も平等もだろう、その時の私は強く思ったし、今現在も思っているけど。

 かなり以前、この記事でも書いたような気がするが「真に自由であれば平等だし、真に平等であれば自由なんだ。自由と平等は矛盾しない」と私は確信している。同様に、芸術か命かではなく、芸術が発展するところで命は大切にされるし、命が大切にされるところで芸術は発展するはずである。