人間の幸・不幸

 インターネットは良くも悪くも世界を変える技術革新だが、どうせ変わるなら世界が平和で安全で、そして人間の一人ひとりが自由で平等になるよう変わってほしいもの。

 しかし、残念というか、あたりまえというか、技術そのものは人間の本質そのものを変えることなどできない。人間が変わるのは人間の力によって、しかも他者からではなく自らの力で。結局、人間は自ら内省して自身を変えることしかできないのである。

 だから、問題は内省できること。そのためにはどうしてもある程度の余裕が必要。大勢の人々の余裕の確保のため技術が進歩してきたと言っても過言ではない。その為の機械設備であり、交通手段であり、また通信手段であるはずだが…。

 日々の人間生活において十分に余裕を持てるかどうか。それが人間の幸・不幸の分かれ目のような気がする。さて、インターネットは一人ひとりに余裕をもたらしているか、それとも…。

 かつて私が若かった頃、近未来社会を予想した特集が少年誌などを中心によく組まれていた。その内容はコンピュータがそしてロボットが人間の代わりに辛い労働を引き継ぎ、一人ひとりの人間は毎日自由を謳歌しつつ幸せな人生を送れるという「明るい未来」が中心だったような気がする。

 コンピュータや機械が発達すること事態と人間の感情とは水と油のごとく別世界。ところが現実世界では、技術の進歩とともに社会が右往左往させられ、人間から余裕が失われつつあるかのように見える。

 技術革新が人々に幸をもたらすためには、その扱い方を通していかに人々に余裕を与えられるかどうか、それができるのは政治の力だ。ところが、現実の政治はどうかといえば、そのあまりの貧困ぶりは見ての通り。つくづく現在の政治下で管理されてる人々は不幸だ。