いろんな名前

 自分の名前が自分で決められるようになると、いろんな名前が混在して面白くなりそうだ。

 最小単位の組織である家族内でも、母がエリザベス・ヘプバーン、父は朴日成、姉はナターシャ・アレクサンドラ、兄は周沢東、妹はマララ・ヨハンセン、弟はガブリエル・フセイン、自分は皆友良幸(みなともよしゆき)、小さな同じ屋根の下でも名前が違うだけで国際色豊かになる。

 だが実際、米国の強い影響下にある日本においては英語系の名前が増えるかもしれない。ただ、言語は文化の根幹を成すものだから、やはり日本式の名前を選択する人が圧倒的に多くなるかも。現状を鑑みれば、日本人が朝鮮や中国や東南アジア、ましてやアラブ・アフリカ系の名前を選択することはあまりなさそうだ。

 それでも中には、日本から遠く離れたイメージの名前を付けたがる、良い意味でのひねくれ者はどこにでも必ず潜在するから、少数派であろうと従来の日本的ではない名前を用いる日本人がこの日本社会に混在するようになる。それはそれでかなりインパクトを持つと思う。

 名前はその人の顔の一部だから、日本人が表向きだけでも非日本的になるとしたら社会の雰囲気はかなり変わる可能性があり、日本と世界との敷居が低くなることは間違いない。

 それにしても、日本とか中国とか、アメリカとかロシアとかイスラエルとか、相変わらず国家にこだわり過ぎる。丸い地球の表面を右往左往する個としての人間がいるだけなのに、地図上の線引きが現在もこれほど影響力を持ちつづけるとは…。

 たとえ国境内でもいろんな名前が混在することで、見えない壁がわずかでも取っ払えるなら、これは凄いこと。

 たかが名前。されど名前。名前だけでも人間が個人として自立できるかどうかの問題を提起してくれる。