加害者の視点

 アメリカの2014年度アカデミー賞で「それでも夜は明ける(原題は「12年間の奴隷」)」が作品賞に選ばれたが、これはアメリカ歴史上の暗部である奴隷制度の一側面を描いた作品だ。つい最近「ダンス・ウィズ・ウルブズ」という映画を23年ぶりに観たが、これもまた、白人が先住民を侵略したというアメリカ歴史上の暗部について先住民の立場から描いた作品だった。

 自国の恥部に目を開き、関心を寄せ、具体化するため資金を集めて制作する。完成された作品は堂々と一般公開され、しかも大ヒット。映画を通してアメリカという国の懐の深さを思い知らされる。

 翻って日本映画の実態はどうだろうか。例えば、日本には先の大戦に関する作品が数多く制作され、名作・佳作もたくさんあるが、それらのほとんどは戦争で犠牲になった被害者としての心情を訴えるものばかりである(「二十四の瞳」や「原爆の子」など)。被害者の視点から戦争の悲惨さを訴えることはもちろん大切だが、しかし肝心なことが決定的に欠落している。

 日本は、朝鮮半島や中国大陸、そして東南アジア諸国へ侵略した過去を持ち、これは決してぬぐい去ることのできない日本歴史上の暗部であり汚点である。他国への侵略行為という日本の負の歴史に対して、これまで日本映画界は正々堂々と向き合うことをしなかった。

 「人間の條件」や「戦争と人間」など戦争そのものを描いた超大作もあるし、軍隊内部の不条理を描いた「真空地帯」という作品も確かにある。それらはどれも良質な作品だと思うが加害を直視することなく、結局は「戦争とは悲惨なものである」という情緒的な方向へ流れているような気がするのである。

 「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」について、日本こそが加害者の視点からそれら事実を描かなければならない。どこの国・地域にも歴史上において蓋をしておきたい負の遺産があるだろう。だがその蓋を自分たちで開け、自分たちで事実を追求し、自分たちが自らの行為を反省する。それが出来るかどうか、真の勇気と度量の深さが試される。

 良心的で優れた企画はたくさん出てきたはずだが、しかし残念ながら具体的な制作段階までは進まない。ましてや一般に公開など夢のまた夢。これは映画界だけの話じゃなく、日本においてあらゆる表現媒体に当て嵌まる矮小な現実なのだ。