「らしさ」からの脱却

 昨年の11月10日に高倉健(享年83歳)が、つづけて同月28日には菅原文太(享年81歳)が逝った。年齢を考えればそれなりに人生を全うしたのだろうが、映画好きな私にとってご両人にはまだまだ活躍してほしかったのでとても残念だった。

 二人は個性は違うが、若い頃は骨太の「男らしい」という形容がピッタリで、圧倒的な存在感があり、いわゆる絵になる映画スターだった。東映のヤクザ物を中心に活躍した高倉健菅原文太が亡くなり、月並みだがやはりひとつの時代が終わったなぁとの感慨を抱く。

 20世紀の特に前半は「強くて格好いい人間」を求める風潮が支配的だった。それは21世紀に入っても引きずってはいるものの、しかし男女平等・同権が叫ばれ、女性の社会進出が顕著になった20世紀後半から21世紀の今日にかけて、ひとり一人の求められる人間像は変容してきたと思う。

 これまでの長い期間、強く、逞しく、頼りになる、それが男性の理想像だったかもしれない。だがしかし、これは映像の世紀と呼ばれる20世紀が産み出した幻想に過ぎず、軟弱で頼りない「男」の本質を映像を通してカモフラージュしていたわけである。

 さすがに最近はマッチョ的傾向が支持されることはなくなり、逆にしなやかで柔軟で幅広く、しかも奥深いこと、言葉を変えれば両性具有的な要素が重要視されていると思う。

 私が高倉健菅原文太にもっと長生きして欲しかったのは、ヤクザ映画を卒業して晩年の二人は穏やかなお年寄りを演じていたように、まさに柔和で落ち着いた好々爺を二人を通してもっと観たかったからだ。人の命や優しさを大切にする映画作品や社会活動を、強くて逞しい男性像から脱却した高倉健菅原文太の時代を照らす生き方に注目したかったわけである…。