憲法は言葉よりも実践

 日本国憲法の第二章「戦争の放棄」と第三章「国民の権利及び義務」を改めて読み返すと、これは理想であり、私たちの生きる現実とは随分かけ離れていることが分かる。第三章には「すべて国民は〜」とか、「何人も〜」から始まる条文が多いが、そこに記されている内容が社会に十分活かされていると納得できる人が、はたして実際にどれほどいるか。ほとんどいないだろう。

 憲法の素晴らしい文言に対し、あまりに乖離する現実を知ると、なんだか空しくなってくる。だからと言って、理想が無意味であるはずがなく、その理想に一歩でも近づくための実践が問われるのであり、現状に照らし合わせ、憲法の中身を現実的な文言へ変えることは本末転倒の極みだろう。

 0〜100までの距離の中、私たちがかりに50の位置に立っているなら、今後、私たちが0の方向へ進むのか、それとも100の方向へ進むのか、それは同じ50の位置に立ちながら性格がまったく違ったものとなる。長い時間が経過した後、けっきょく私たちは50の位置から少しも変わらなかったという事実が残ったとしても、私たちがどちらの方向へ進もうとしたかににより、同じ位置でありながら私たちの社会は全く別なものとして評価されると思う。

 現実を直視することはもっとも重要なことだが、現実を直視しながら理想を目指すのか、それとも妥協するのか。この「理想を目指す」姿勢と「妥協する」姿勢とでは水と油ほどの違いがある。

 第十章「最高法規」の第九十七条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と記されている。すなわち、これは「多年にわたる努力の成果」であり、「現在及び将来に対し、侵すことのできない永久の権利」なのだから、これから先も絶えざる努力を私たちに求めているのである。

 もし、私たちが努力を怠るなら、理想はあっという間に雲散霧消するだろうし、現実そのものが瓦解してしまう。たとえ50の位置が変わらずとも、それが努力の成果による50の位置である限り、私たちは多少の自慢はしていいし、未来に向けて希望の火は決して消えることはない。