他力本願と自力

 「他力本願」とは仏教用語のひとつ。これはもちろん「他人の力をあてにする」ことではない。私は宗教に詳しくないので細かなことまで分からないが、それでもこれまで幾つかの文献を読んだり自ら考えたりしながら、他力本願という思想の真意の深さは私なりに感じている。

 それにしても、「他力本願」という言葉ほど誤解を招く言葉はないようだ。他人に頼ることなく、何事もなるべく自分でやろうとしない限り成長しない――これは、大人が子供に、先生が生徒に、師匠が弟子に…教訓を垂れるときよく耳にするセリフだが、確かにその通りなので額面通りついつい「他力本願ではダメ」という具合に使用されるのだろう。

 さて、時代を貫く「他力本願」の真意とは何か? 現代を生きる私は私なりに解釈したい。

 自分という存在を直視すればするほど、この世界(宇宙)の中で自分は大きくも強くもなく、むしろあまりに小さく弱々しい存在であることが分かってくる。そんな無力で無知な己を自覚したとき、他者の存在によって自分が生かされていることが分かる。他者がいてこそ自分が存在するのである。その時、自分は自分の心の空しさを実感することができ、自分が初めて他者を素直に受け入れることができるようになる。これが他力である。

 一方、それまで自分で自分を過大評価してきたことがいかに誤りであったか。自分とは偉くもなく優秀でもなく、ちっぽけで取るに足らない存在だ。自分も他者のひとりに過ぎず、だからこそ一人ひとりの人間は等しく、そんな人間平等の地平から新たな出発の第一歩を始めなければならない。これが自力である。

 少なくとも私は以上のように解釈する。すなわち、他力本願とは自力のことでもある。他力に「本願」が付くのは、時間軸において初めに他力があり、自力が先走ることなどありえないからだ。

 宗教の専門家から言わせれば私の解釈は間違っているだろう。しかし、時代や場所が異なれば、当然ながら表現も異なる。今昔、専門家であろうとなかろうと、人の生き方には通底するものが必ずある。