「変化」の本当の意味

 先行き不透明な時代だからか「変化」を求める声が大きい。「変わる」「変えたい」「変わらなければ」…現状への不満が鬱積するあまり強く変化が期待され、こんなに変化が多様に語られることは近頃なかった。まるで変化の大安売りだ。それほどまで人々はこれから先に不安を感じているということか。

 過去から現在、そして未来へと、自然や社会は常に変わるし、人間そのものが赤ん坊から幼児、子供、青年、熟年、老人へと年齢を重ねるごとに容貌だけでなく生活様式も変わってゆく。特に意識せずとも、人間社会は時間の経過とともに嫌でも変わらざるを得ない。

 しかし、私たちはそんな表層的な変化のみを問うているわけではない。根源的な、奥底からの「何か」に変化の本質を求めており、一夜にして価値観が逆転するような、もっと劇的な変化に焦がれているのだろう。

 「自分とは何者か」「なぜ、自分はここにいるのか」「何のために自分は生きているのか」…どんな人も一度や二度は真剣に思い悩んだに違いない。じつは、これらの問いこそが、強く意識するかしないかは別として、生まれてから死ぬまで常に考える人間の永遠の命題である。

 いま、生まれてから死ぬまでとつい書いてしまったが、この表記はあきらかに間違っている。「産み落とされてから…」が正しく、どんな人もこの世に自ら誕生してきたわけではなく、他者により未知の世界に放り出された存在である。この紛れもない事実をどこまで深く自覚できるかどうかが、まずは重要だ。

 他者によって自分が変えられるとしたら、それは本当の変化ではなく、単なるマインド・コントロールだ。変化を求めるなら、自らが変わらなければ本物とはならず、内省して生まれ変わるしかない。内省するためには一人になること、一人にならなければ内省できない。

 たった一人になれるかどうか。一人で内省するためにはある程度の余裕が必要だ。そして余裕があるかないかを問えば問うほど経済問題へとゆきつく。しかし、金持ちだから余裕があるとは限らない。食べることにやっとの貧困層とは別に、富裕層は競争と保全のためにあくせくし、むしろ己を省みる余裕を無くしている。