臓器移植について

 富山県の富大病院に入院していた6歳未満の男児脳死と判定され、家族は臓器移植を承諾、6歳未満は初めてなので大きな話題になった。男児から心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓、小腸、眼球を摘出。両肺と膵臓、小腸以外は、10歳未満の女児や60代の女性に移植されたという。

 臓器移植は既にあちこちで実施されているが、あらためて凄い時代になったなと思う。コンピュータの進歩も凄まじいが、医学の進歩もただただ驚くばかり。それにしても、6歳未満の幼児の身体が、たとえ死後でも手術台でバラバラにされるのである。他人の救済のためとはいえ複雑な気持ちになる。

 今現在における私自身の姿勢は、もし私が死んだなら、私の臓器で使えるものがあればいくらでも使ってほしい、しかし、生きるために他人の臓器の移植を受けてまで延命したいとは思わない。

 「自分の臓器は提供してもいいが、他人の臓器はいらない」とはカッコ良すぎるかな。これでは、表向きは健康で善人面した人間の安易な思い込みだと批判されても仕方ない。実際、臓器を提供する側も、臓器を受け入れる側も、患者や医者の当事者は必死に現実と向き合っている。

 ただ、やはり、医学や技術の進歩だけでなく、生命倫理の問題を軽んじるわけにはいかない。私は自分の臓器を提供しても構わないが、あくまでも私が完全に死んでからだ。あたり前だ。生きているうちに身体をバラバラにされたのではたまらない。問題はまさにここにあり、本当に脳死だけで人の死そのものを判断していいのかどうか、私には分からないのだ。

 野菜や魚介類は新鮮でなければならない。人間の臓器も同じだ。時間が経過すれば鮮度は落ちる。いくら他人の命を救うためとはいえ、新鮮な臓器提供のため焦って死亡判断を下せば殺人行為にもなりかねず、また、純粋に医学的な見地からだけでなく、金や地位や名声も絡んでくるだろう、それらを想像すると恐ろしい。

 私は死にました。しかし、私は完全に死ぬまで時間がかかったので、私の臓器は役に立たず、結局、私の肉体は丸ごと火葬されました……。