映画「PLAN 75」を観て思ったこと

 昨年公開され話題になった映画「PLAN 75」(早川千絵監督、倍賞千恵子主演)をAmazonプライムで観た。高齢者をテーマにした作品の一つでとても感心があったからだ。

 映画は、少子高齢化が益々深刻化し、75歳以上の高齢者に「安楽死」を選択できる制度が成立した近未来の日本社会を描く。安楽死の対象となった高齢者と、その制度に直接・間接的に携わるを若い世代を絡ませながら、これは人々が様々な場面で葛藤に悩む深刻な人間ドラマである。

 重いテーマを感情を抑制しつつ丁寧に描ける演出力はさすがで、長編映画初監督作品とはとても思えなかった。ただ、最後まで坦々として今ひとつ盛り上がりに欠けた印象は否めず、ラストくらいは冷酷な状況を具体的に描写してほしかった。例えば、費用が安上がりになる安楽死を選択した人たちが集団で火葬・埋葬される場面等…それがあればインパクトがより強く、もっと印象深い作品になっただろう。ただ、良品であることに違いなく、非常に重要な問題を提起している。

 日本での長年に渡る政治の無策・失政を棚に上げ、この映画が描いたような少子高齢化問題を安易に「安楽死」で解決させようとする方策は明らかに間違っており、もし実現したら、成田悠輔が口にした高齢者の集団自決の推奨や、相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で大量虐殺事件を起こした犯人植松聖の思想や行動に、社会が同調したことになるからだ。

 高齢者や障害者やLGBTQの人たちは「役立たない」とか「生産性がない」とかを理由に差別されてはならず、もちろん社会の「邪魔」になるからと排除されてはならない。むしろ逆に、誕生した赤子と同様とても重要な「存在」であり、言い方を変えれば、彼ら彼女らは決して特別な存在ではないということ。その認識が多くの人々の意識から欠落した時、人間社会から希望は失せ、未来は途絶える。

 想像してほしい、全ての人間は(私もあなたも)この世に誕生した時、無知・無脳・無力で皆が同等な赤子だったということを。そして長生きすれば誰もが赤子のように嫌でも無知・無能・無力の存在に還るということを。さらに付け加ええれば、誕生と死との間、すなわちどんな人の毎日も、底辺には常に無知・無能・無力が横たわり、それを土台にして人生が築かれているということを。

 以上の自覚が少しでもあれば健常者とか障害者とか、異性愛者とか同性愛者とか、あるいは女性とか人種が違うとか…どうして同じ人間なのに区別・差別ができるだろうか。全ての人には同等に生きる権利がある。言うまでもない。