私が変われば世界は変わるかも

 あまりにデタラメな安倍政権の政治運営を見ながら、怒りと絶望、焦りと諦め、嘆きと呆れ…それらがごった煮のような状況に陥ってしまっている。しかし、どんなに足掻いても、この状況は変わらず、ますます悪政は暴走し、ひたすら独裁への道を進むばかり。

 一体どうしたらいいのか。正面からぶつかっても跳ね返されるだけ。「安倍政権打倒!」「安倍政治を許さない!」「憲法守れ!」「原発反対!」「カジノ反対!」…等々、いくらそれらを叫んでもほとんど効果なし。正論を声高に叫び訴えるほど、むしろ多くの人たちは引いてしまうかのようだ。

  実際、選挙で投票率は50%ほど、およそ人口の半数が政治に無関心を装う。そんな現実の中、無関心な人々が興味を抱ける戦術・戦略を探らなければ。それは必ず見つかるはずで、これには生涯を賭けるほどの価値があるかもしれない。

 現在の社会状況、強者が威張り、弱者が虐げられる。不公平・不平等、だから何とかしたい、変えたいと正常な人は願う。でも、社会は良い方向へは簡単には変わらず悪くなるばかり。ファシズム全体主義はすぐ目の前だ。

 世界どころか、国も、市も、町も、村も…変えることは難しい。会社も、町内会も、家庭も…人が集うところは簡単には変えられない。だが「私」という個人なら何とか変えることができる。自らの力で「私」という個人を変えるべきで、それは誰もが可能である。

 もちろん、ただ変われば良いわけでなく、内なる「他者性」に目覚めるか、それとも内なる「独善性」が強化されるか、それが問われる。この両者では方向性が決定的に異なり、どちらに変わるべきかは言うまでもなく「他者性」に目覚めなければ意味はない。

 重要なのは、私が変われば世界が変わるかも…くらいの自惚れを個々人が持つこと。逆に、世界が変われば私も変わるなら、それは変わったのではなく変えさせられたに過ぎず、つまり皆がやるなら自分もやるという姿勢でいる限り、それは奴隷への道を歩むだけということ。