世界は憲法九条を求めている

 人類の歴史上、芸術や科学や哲学が産み出した知的財産のほとんどは、じつは「日本国憲法 第九条」の精神を世界中にいかにして浸透させるか、そのために存在してきたのだと究極的に思わずにはいられない。

 人間とは弱い存在で、弱いからこそカモフラージュして争うのだが、それは人間の本能であり、だから弱さを克服し強くなるために武器で身を纏う――というのはある意味核心を突いている。だから、過去から現在まで、人間は武器を用いて土地や資源の奪い合いをつづけてきた。

 確かに、人間は争わずにはいられないのだ。人間が人間でありつづけるかぎり争い事はなくならないと断言できる。だが、そんな争い事を、武器を用いずに、言論やスポーツという手段で代替させようと試みてきたのも人間だった。

 争うのが人間の本能ならば遠慮せずにどんどん争えばいい。ただし、人を殺傷する武器を用いるのではなく、芸術や科学や哲学をはじめ、言論やスポーツを通して、表現の世界で競い争うべきだ。

 ところで「武器を持つな!」と言うだけでは説得力はない。なぜ武器を持ちたがるのか、それは人間の弱さからくるとしても、その弱さの要因とは、自分の安心や平穏が襲われたり奪われたりすることを恐れているからに他ならない。

 人間が潜在的に抱く「襲われるかもしれない、奪われるかもしれない」という恐れや不安を解消すること。それができたなら、おそらく人間は武器に頼ることをしなくなると思う。さて、ではいったい人間から恐れや不安を解消するにはどうしたらいいのか。

 「敵が攻めて来たらどうする」とは昔も今も軍事力(武器)に頼ろうとする側の常套句で、一見するとなかなか説得力がありそうだが、この単純思考を卒業しないかぎり人間は恐れや不安からは決して逃れられることはない。

 「敵が攻めて来れない」社会を構築する。たとえ武器を持った相手であろうと攻撃できない仕組みを創造する。そんな世界は憲法九条があればこそ実現できる。人類の多くの知的財産は、人間の自由と平等、不公平のない社会の実現、それらを様々な角度から希求しているかのようで、その要約が「日本国憲法 第九条」なのである。