威張る奴が被害者面する

 他人の家に勝手に土足で入ったドロボーが、その家の住人から文句を言われ抵抗を受け、さらに取っ組み合いとなり殴られケガをする。ドロボーは耐えられなくなり一目散に逃げ出すが、しばらくして家の住人の暴力を告発。傷の賠償請求をするためドロボーは裁判に訴える。

 もし、上記のような光景を第三者が傍から見たとして、ドロボーの訴えに正当性を認めるだろうか。いちいち説明するまでもなく、だれが見ても他人の家に勝手に入ったドロボーにこそ否があり、裁かれるのはドロボーの側であることは自明である。

 ところが、これまでの日本の現状や、世界の動向を見ていると、なぜかドロボーが正義となり家の住人が悪者扱いされてしまう。

 自民党石破茂幹事長が「絶叫デモはテロ行為と本質的に変わらない」と自身のブログに書いて問題になったが、この発言などまさしくドロボーが被害者面をしている典型である。悪法を一方的に押し付けられることに抵抗(反対)する市民を悪者扱いし、公約にもない特定秘密保護法強行採決したくせに、我ら権力の側こそがいい迷惑と石破はうそぶくのだ。

 強者が弱者に勝手な振る舞いをすれば、弱者からは疑問や文句が生ずるのは自然の成り行きである。強者が弱者を従わせようと力を振りかざすなら強者こそが悪であり、身も心も犠牲にして弱者が強者の理不尽に必死に抵抗するなら、そんな弱者の行為こそは正真正銘の正義ではないか。

 第二次世界大戦におけるドイツや日本の行為、旧ソ連の東ヨーロッパ諸国への対応、そして米国によるベトナム戦争イラク戦争…等々を見れば明らかで、威張りたがる奴はいつも一方的に殴っておきながら、逆に殴り返されると被害者面をしてさらに害悪を拡大させる。

 地方への原発招致、沖縄の米軍基地、これら日本国内における現在進行形の問題についても強者と弱者の構図はまったく同じだ。権力はマスコミを抱き込み、弱者の必死の抵抗を悪者扱いしたがる。止むに止まれず行動する無名の人たちの気持ちを探ろうとしなければ本質を見誤る。テロという言葉に惑わされてはならない。