有意義な日々

 仕事に恵まれ高収入、豪華な衣食住、自由時間もタップリ確保、海外旅行にも出かけられるし、素敵なパートナーといつも一緒、セックスも思う存分楽しんでいる。一方、不安定な職を転々、安い賃金で長時間労働、旅行など夢のまた夢、いつも一人ぼっち、結婚どころか一生童貞(処女)で終わるかもしれない。

 現実的には、前者のような贅沢を満喫することのできる人はほんの一握り、毎日をかろうじて生きながらえる後者に属する人がどんどん増加しているのだろう。私はもちろん前者ではないし、かといって後者のタイプでもないが、これまでを振り返るなら、経済的に恵まれなかったので貧困層に入ることは間違いない。

 ただ、貧乏人のひがみに聞こえるかもしれないが、前者のようないかにも幸福に浸っていそうな人々を想像するだけで、とても空しく感じてしまう。

 社会的な地位を確保、物欲に満たされ、食欲や性欲も旺盛、資産をタップリ抱え込み現状に満足しているような人間がいたなら(ほとんどいないと思うが)、あるいはそういう生活形態に憧れを抱くような人間なら、そんな人間は少なくとも表現者にはなれない。

 「人生とは何だろうか」とふと考える。自分の一生だけが人生なのだろうか。人間として生きる限り、自分が死んだ後の時代についても想像力を働かせたい。芸術や科学や哲学のような特別な領域で仕事をする必要はなく、人間の生き方そのものが表現なのだから、何をしようと未来に希望を託す表現者になりたいのである。未来に希望を託したいからこそ、現状に不満を抱かざるを得ないのだ。

 「我が亡き後に洪水は来たれ」のような人生は送りたくない。現状に満足する(したがる)人生とは、まさに「我が亡き後に洪水は来たれ」で時間を費やす無責任極まる人生ではないだろうか。

 東京電力福島第一原発事故が発生、個々の人間の一生を遥かに超える大問題が時間軸に横たわり、私たちはそんな現実を目の当たりにしている。原発問題はひとつの例に過ぎず、多くの難題が私たちを取り囲み、世の中は理不尽さと不公平が蔓延している。

 贅沢を貪る幸福な人生? そんな人生などまっぴらゴメンだ。私はもっと有意義な日々を送りたい。