ファスナーの呪い

 ふだん何気なく使っているいくつかのモノはとても便利な反面、時と場合により我が身を恐怖のどん底に落としたりする。私にとってそれはファスナーだ。

 先日のこと、銀行の貸金庫の個室に入ってからジャンパーのポケットのファスナーが生地に引っかかり開かなくなった。すぐに外れるだろうと安易に構えていたが、なかなか外れない。それどころか益々生地に食い込み1センチも動かない。ポケットには金庫と個室を開閉する共用のカギが入っており、そのカギが取り出せない。

 生地に食い込んだファスナーはうんともすんとも動かない。せっかく貸金庫に入ったのになにもできないどころか、このままでは個室に閉じ込められてしまう。一瞬焦った。だが備え付けの電話で呼び出せばだれかが助けに来てくれるから、すぐ冷静になる。とはいえファスナーが開かないのは困る。ハサミを借りて切ることも考えたが、ジャンパーが台無しだ。

 悪戦苦闘の末、ようやくファスナーは開いたが、力を入れすぎたのか、親指の爪の先が割れてしまった。ポケットのファスナーごときで一苦労するなんて腹が立ってしょうがなかった。そして、昔のことを思い出した――。

 東京に出て会社勤めを始めた頃だ。ほとんど何も所有していなかったが、どこでも利用できる寝袋は持っていた。賃貸アパートの一室、年がら年中いつも寝袋に入って眠っていた。

 ある日のこと、目が覚めて寝袋から出ようとするがファスナーが生地に引っかかり動かない。力を込めてファスナーを引こうとすればするほどファスナーは固くなる。どうしたらいいんだ。焦りに焦る。このままでは遅刻するどころか寝袋から出られない。全身が汗だくになる。

 寝袋の口元は直径15センチほど開いている。だから片手だけでも外に出せるので電話くらいは掛けられる。しかし当時は携帯どころか部屋には固定電話すらなかった。会社への連絡はいつも近所の公衆電話を利用していたのだ。寝袋のままでは外に出られない。けっきょく私は無断欠勤する。じつは会社なんかどうでもよかった。それよりも我が身を案じた。自分は寝袋に閉じ込められ、このまま人生が終わるのではとさえ思った……。

 ファスナー付きの代表はズボンである。特に男性にとってズボンの前扉の上げ下げは一日に何度もするから、ファスナー無くして男性は生きてゆけない。開かないファスナーとは逆に、それを閉めることを忘れ、ズボンの前を全開状態でカッコ付けながら長時間歩いた――そんな赤面する思いを男性ならだれもが経験しているだろう。

 ファスナーを題材にして、恐怖小説やサスペンス映画など小品の一つや二つはできそうだな。題名は「ファスナーの呪い」。面白くなりそうじゃないか。