加代という名の女

前回からのつづき

 日曜日の午後である。私はドキドキしながら加代ちゃんと劇場の席に付き「離愁」を鑑賞した。ところがしばらくすると傍から煙と臭いが…ふと横を見ると、なんと加代ちゃんがタバコをプカプカ吹かしているではないか。映写の邪魔になるし他の客にも迷惑がかかるし、映画館内でタバコを吸うなんてとてもイケナイことだと分かっている私は加代ちゃんに注意しようとした。が、できなかった。加代ちゃんに嫌われるのが恐かったからだ。

 劇場内が比較的空いていたのと座席が後方だったので幸い何事もなかったし、その頃はまだ上映中のタバコに関して現在ほど厳禁を促される状況ではなかったのである。

 ヒヤヒヤしながら劇場から出て来た私は、晴天の日曜日の午後のひととき、せっかくだから街の中心部まで加代ちゃんとお喋りしながらのんびり散歩するつもりでいた。ところがまたしても加代ちゃんは間髪を容れずさっさとタクシーを拾い乗り込んだので、一緒に歩く夢ははかなく消えた。タクシーの乗車距離は2kmもなかった。

 タクシーを降りてから二人でお茶を飲んだり食事することもなく、「用事があるから」と加代ちゃんから一方的に宣言され、その場であっさり別れてしまった。映画代もタクシー代も私が払ったのはもちろんである。

 映画を見るまでときめいていた心臓の鼓動も夕方にはすっかり冷め、なんだかとても空しい気持ちに包まれた。その日の私は、大人の女性に翻弄される馬鹿な世間知らずの若造くらいにしか端からは見えなかっただろう。好きになった女性とのなんとも苦々しい初デートだった。そして、しばらくすると、加代ちゃんは何も告げずにアメリカーナから消え去った。

 その後、私は東京に出て池袋や大塚の近くで長く暮らした。随分経ったある日のこと、大塚駅周辺を歩いていると「スナック加代」という小さな店を見つけた。あの加代ちゃんと同じ名だ。急に懐かしくなり入ってみようかと思った。しかし、いつも前を通るだけ、とうとう一度もドアを開けることをしなかった。やがて大塚駅周辺の再開発とともに「スナック加代」も取り壊された。振り返れば返るほど「スナック加代」にはあの加代ちゃんが居たような気がしてならない…。

 映画「離愁」よりも、加代ちゃんの思い出の方が強いが、それにしても、いつまでも記憶に残る作品には、なにか特別なものが付随している。私と加代ちゃんとの出会いと別れもひとつの「離愁」なのであった。