柔軟に生きたい

 15日は、正月に用いた品々を神社などに持ち寄って焼く左義長と呼ばれる行事の日だった。だから、正月は年明けの三が日だけでなく、15日までつづくのだという意識が昔からあった。左義長の火にあたると身体にいいと言われていたから、子供の頃は遊びがてらに餅を長い針金の先に刺し、それを火の中に入れて焼いたものをよく食べた。

 左義長と聞いて、お年寄りなら意味は分かっても、若い世代には何のことやら知らない人が多いかもしれない。さて、年末年始に限らず、人間社会には一年を通して習慣に基づく行事がたくさんある。それらは歴史と伝統の所産で大切にしなければならないが、しかし一方、それらに拘り過ぎて日々の生活が振り回されるようでは、一体何のための行事なのかと思ったりもする。

 習慣に基づく行事に拘り生活をそれに合わせたがるのは年配者に多い。しかし若い人たちが自由で開放的かと言えばそうとも限らず、噂や流行にハマり抜け出せなくなる話はよく聞く。新興宗教などに惑わされるのは老いも若いもあまり関係ないようだ。

 漠然と宗教について考えるなら、歴史上、宗教ほど人間社会に影響を与えたものはなかった。神や仏は信じてもいし、信じなくてもいい。習慣や伝統に基づく行事を無視する必要はないが、ただ、それらに捉われるとしたら何とも窮屈だ。

 私は仏教徒でありキリスト教徒でありイスラム教徒であり…であり、そしてなによりも無神論者である。似たようなことを以前にも書いた覚えがあるが、ふたたび言わせていただこう。私はじつにいい加減な人間であり、それはすなわち良い加減な人間なのだと自負している。

 神社や寺院や教会などを見るたびに私は疑問を感じる。あんなところに神や仏が存在するはずがない。地球の歴史上、いかに多くの人々の血や肉や骨が(人間だけじゃなく)殺されたりして大地に沁み込み埋もれてきたことか。神や仏は私たちの足下の最底辺にこそ存在し、場所や時間を選んだりはしない。

 ところで、本物の宗教と偽物の宗教を区別することは簡単、少なくとも人間のために宗教はあるべきで、宗教のために人間があってはならないことが判断基準だ。それを国に当てはめると分かりやすく、人間のための国家であるべきはずが、国家のための人間に逆転するとどんなに危険であるか、説明するまでもない。