松井秀喜の引退

 年末ギリギリになって「松井秀喜引退」という大きなニュースが飛び込んで来た。これは野球選手個人の報道に過ぎず、私たち庶民の生活には直接関係ないのだが、やはり松井秀喜が現役を退くという事実には感慨深いものがある。

 同郷でもあり昔から松井秀喜には注目していた。熱狂的な視線からほど遠く、スポーツ全体を俯瞰するように、私は彼を野球に携わる一人の選手として冷静に眺めていたつもりだ。その人柄はスポーツ選手の枠を超え人間として賞賛に値するし、ゴジラというニックネームは堅苦しい雰囲気とは無縁でギスギスした気持ちをほぐしてくれるような親しみを醸し出していた。スケールの大きさを感じさせてくれた人物だった。

 松井秀喜が所属した球団は主に読売(巨人)とヤンキースだ。ところで私は、松井秀喜は好きなのだが巨人もヤンキースも昔から嫌いで、それは今現在も変わらない。だから松井が活躍して巨人やヤンキースが負ければいい、といつも思っていたのだ。

 いかにも紳士面をしながら、じつは裏金をバラまき勢力を維持しようとする汚いイメージが巨人やヤンキースにはどうしても付き纏う。読売グループの顔とも言うべき渡辺恒雄や、長年ヤンキースのオーナーを務めた故スタインブレナーからは悪い印象しか浮かばない。

 正直、野球に興味が無くなった。松井秀喜が引退したからではなく、かなり前からそうなのである。野球に限らず、サッカーにも、相撲にも、その他の競技にも、オリンピックのような大きなイベントにも特別な感情を抱くことは無くなった。スポーツが嫌いになったわけではなく、社会的な視点からスポーツを捉えたくて、だからスポーツそのものには大いに関心があることに変わりない。

 以前の記事でも書いたけど、欧米や日本でプロスポーツが隆盛ということは、じつは世界に不公平が蔓延している証拠なのである。繰り返し訴えたいが、もし世界中に民主主義が根付くならプロスポーツは衰退してゆくと思う。一方、そうなればこそ人々の趣味や健康つくりの観点からスポーツそのものは社会の隅々にまで浸透してゆくに違いない。

 ゴジラ松井が現役を引退したことを契機に、また新たにスポーツを通して世界を眺めながら、これから先の変化について想像を巡らすとしよう。