ガレキ処理について・再考

 東日本大震災の大量に発生したガレキについて、私は2月24日に放射能に汚染されてない「ガレキは受け入れたい」と記事を書いた。しかしその後いろいろ見聞してみると、ただ単純に善意の気持ちで働きかければよいものではないことが分かってきた。実態は奥が深く、人それぞれの思惑が複雑に絡み合っているようだ。

 ガレキ処理に関する私自身の基本的理念は変わらないが、もっと掘り下げて幅広い意見を集約しながら判断しなければと思う。被災した地元の人たちの意向を大切にすると共に、なによりも科学的考察が重要であることを痛感する。「ガンバロー」や「絆」の言葉にまとわりつく情感に流されてはいけない。

 ところで地元の人たちはガレキについてどのように考えているのか。じつは地元でも異論・反論が渦巻き賛否が分かれているようで、ガレキが復興の邪魔になり一日も早く撤去してほしいという意見から、復興にガレキを有効活用したいので勝手に持っていかれては困るという意見までいろいろあるらしい。町の大半が消失した状況で、町を再生するにはそれこそ大量の資材が必要となる。ガレキを全部撤去した後、また新たな資材を用いて町の土台作りをしようものなら時間とコストが余計に掛かる――。

 なによりも深刻な問題は放射能汚染だ。低線量被爆から目を逸らすことはできず、福島のガレキは危険で受け入れられないが、宮城や岩手のガレキなら安全で大丈夫、とそんな単純に線引きなどできるわけがない。さらに、ガレキ処理には莫大な費用が掛かるので、自治体や業者の人間関係による癒着や利権が絡んでくる。

 遠く離れた安全地帯にいる私のような個人の意見に説得力などないことは分かっている。それでも、お上からの一方的通達は信用できないし、テレビや新聞など大手マスコミ情報を鵜呑みにするべきでない、と意見具申したい。

 さて、大阪市長橋下徹氏が「・・・がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法九条が原因・・・」と、トンチンカンな言説をツィッタ―で流したらしいが、こんな意見に惑わされては大変だ。日本に自分勝手な人が増えていると橋下徹氏の主張を認めたとしても、それは憲法九条が原因なのではなく、むしろ憲法九条の精神が国民から乖離しているからだと私は逆に訴えたい。