マインド・コントロール

 お笑いコンビ・オセロの中島知子が女占師にマインド・コントロールされている話題がワイドショーを中心に盛んだ。もっと重要なニュースがあるだろうと報道姿勢に批判はあるが、しかし一方で、中島知子ではなくマインド・コントロールそのものに焦点を絞ると重要な本質が見えてくる。芸能人のゴシップも無駄にはできない。

 エセ宗教、エセ科学、カルト集団・・・等々、いつの時代もマインド・コントローが話題になるのは社会が本質的に抱えている病巣が噴出するからだろう。近年一番問題になったマインド・コントロールは「オウム真理教事件」だった。もっと以前の「連合赤軍事件」も革命の妄想にマインド・コントロールされた集団の仕業だったかもしれない。

 多くの人々が「オウム」も「連合赤軍」も特殊な若者たちの異常な行動としか見ないようなら、おそらくまた似たような事件は繰り返される可能性は大きい。なぜなら、さらに遡って1945年以前の日本全体が「天皇制中心の軍国主義」という権力からのマインド・コントロールに操られていたからで、特殊が全体を覆うと、それは特殊ではなく当たり前になってしまう。マインド・コントロールで一色に染める全体主義がどんなに恐ろしいか。

 ナチスヒトラーゲッペルスマインド・コントロールが上手だったに違いない。話術と演技で全体を巧みに操ることは、じつは容易いのだろう。しかし、全体の問題とは、突き詰めれば一人ひとりの個人の問題に行きつく。「私」という個人について精査することがなによりも肝心である。

 じつは、人は誰でも「私自身」をマインド・コントロールしているのかもしれない。人間は常に自分を正当化したがるもので、表向きは他者の意見に頷く素振りを見せても、実際は腹の中で相手を否定し自己を肯定している。「私」を正当化するため自らをコントロールする。そして、そんな自己肯定という自己愛に耽溺する多くの「私」が集団になると全体をマインド・コントロールするようになる。

 自分は自由だと思っていても、じつは私が私自身に強固に囚われて不自由で窮屈な状況に陥っていないか? 一人ひとりが真の自由を得るために、人は私自身からも自由でいられるかどうか――「自己愛という牢獄」から解放されてこそ、他者への差別や不公平を乗り越えられるのではないだろうか。