映画作品の変化

 技術の進歩は生活様式を大きく変える。映画はまだ百数十年の歴史だが、短期間に無声からトーキー、カラー、大型スクリーン、CG、そして3Dと目まぐるしく変貌しつつ、それに伴い手法や中身が変わり、私たち観客の意識に影響を及ぼしてきた。

 日本映画も外国映画も変わった。特に米国のハリウッド物の昨今の変わり方は極端だ。分かりやすく言うと、「落ち着いてゆっくり」した描写が、「慌ただしく速い」描写になってしまった。制作する側は時代の情勢に合わせているのかもしれないが、私のような長年の映画ファンは戸惑うことがしばしばだ。

 CGや3Dなどはコンピュータの進歩とともに受け入れざるを得ず、むしろ大いに活用すべきだろう。しかし、内容までも“0”か“1”のデジタル化で軽薄になっては困る。0と1との間には無数の割りきれない数字が意味を持って存在し、そんな割り切れないアナログ的要素が現実に横たわり世界の大部分を占める。

 軽薄さは、ミステリー、アクション、サスペンス、SF、ホラーなどの作品群が特に著しい。俗に言う「ジェットコースター」化している。展開が速く、変化が急激で、一週間の日程に無理やり一年間を詰め込んだような感じだ。だから、動植物や自然の景観、住居や街並みや交通機関をどんなに本物そっくりにCGで描こうとも、雰囲気としての現実味にはどうしても欠ける。

 日常における家族の悲哀を淡々と描いた小津安二郎の「麦秋」や「東京物語」のような作品を、もしフルCGで描いたならどうなるか。CGで描くこと自体は一向に構わないと思う。ただ、内容において展開が見るからに早まり、セカセカするようではまったく別物となる。

 登場人物がすべてCGで描かれるとしたら、いずれ俳優という職業は過去の遺物になるかもしれない。もはや、アニメとか実写の区別など意味を成さなくなる。その良し悪しの判断は別として、しかし事物の関係性のリアリティに裏打ちされた、説得力ある作品を鑑賞したい気持ちが変わることはない。