生活基盤はゲームじゃない

 オリンピックのような総合的なものから、単独競技でもサッカーやラグビーのワールドカップをはじめ、野球、テニス、ゴルフ、相撲、バレーボール、体操、水泳、スキー、スケートなど各種スポーツ大会が盛んである。

 スポーツというゲームの特徴はルールに則った公平性を基に必ず勝負をつけることだ。引き分けという制度もあるが、基本的には勝つか負けるかの決着をつけることで成り立つ。競い合うことで熱くなり興奮し、だからこそ人々は夢中になる。勝てば栄光、負ければ悔しい。勝つためにはどうすればいいか、関係者は工夫し努力する。

 社会主義ソ連が崩壊し、資本主義が勝利したかのような錯覚を世界が抱いたときから金融のマネーゲームが本格的に始まった。世界中がマネーゲームに踊らされる形で今日に至っている。つまり、今現在、儲かるか損するかのマネーというゲーム盤に世界が乗せられ地域や各国がひとつの駒のように操られている。

 衣・食・住のような基本領域において一人ひとりの人間は平等であるべきで、勝つとか負けるとかの概念を与えてはならないはずだが、今現在は生活基盤そのものに「勝ち組」とか「負け組」のランクを付けたがる。

 TPPでは野田首相が「国益を守る」「勝ちとるものは勝ちとる」などと、まるでゲームに参加して勝負をつけるかのような姿勢である。首相だけじゃなく、賛成派も反対派も、国会議員もマスコミも、そして国民一人ひとりまでもがTPPというゲームで勝利しなければならない、あるいは勝ち目のないゲームには参加するな、との論調に巻き込まれている。

 勝負をつけるゲームは面白い。ただし繰り返すが、ゲームは公平なルールに則った上で展開されなければならず、不公平な状況でゲームを始めることほどインチキなことはない。世界に不公平が蔓延し、人々の生活基盤に大きな格差が生じる現実の中で、強国や富裕層が小国や貧困層を相手にゲームに興じることは許されない。

 政治がゲームになることは悲劇だ。人間の生活基盤をゲームにさせないためにこそ政治の役割があるはずなのに――。ゲームとは安定した生活基盤の上で人々が余暇として楽しむためのものだ。