人間の心理 その2(経験を超えて)

 前回の日記で、初めて店に来た客には二つのタイプがあることを述べたが、もちろん事はそんな単純ではない。なにも喋らず二度と来なかった客もいれば、最初から印象が良くて常連になってくれた客もいる。しかし「いい店」とか「また来ます」と初めての客が口にした場合、ほぼ100%二度と来店しなかったことだけは確かだ。常連になる客は初めからそんな口のききかたを決してしない。(初めて来て店が気に入り、また来ることを約束しながら、その後忙しくて足を運べなかった人もいるかもしれないが・・・)

 これは恋愛心理に似ている。誰でも青春時代を思い出すだろう。一方的に好きになった片想いの女性や男性に対して自分はどんな態度を示したろうか。学校の廊下ですれ違うときや、街の路地裏で偶然出会ったときなど、皆はどんな気持ちで近づいただろうか。ニコニコ笑いながら、「あなたのことが大好きです」と、いまにも声を出すかのように振る舞えただろうか。むしろ反対に、好きでたまらないからこそ、いかにも気にしないような素振りをみせて、「あなたなんか嫌い」みたいな姿勢をとらなかっただろうか。

 状況や場所は違っても、人間とは奥深く、なかなか本音を表に出さないものであり、だからこそ裏を読む術が求められるというわけだ。会社の営業に携わる人なら嫌ほど理解できるだろうし、BARやスナックやキャバレーなど直接お客と向き合う商売なら尚更である。

 高級クラブの有名ママのように手練手管で上手に客を操ることができるなら水商売は儲かるかもしれないが、良くも悪くも演技が下手な私のような人間が携わる店は最後まで経営は苦しかった。それでもなんとかやってこれたのは素人臭さがじつは消えなかったからで、逆に私のような人間が客の心を深読みしてプロに徹しようとしたら早いうちに失敗していたかもしれない。店にもいろいろあるのだ。

 例えばドイツの文豪ゲーテの一生は、いつも女性との恋愛に彩られている。彼は80歳を過ぎても20歳そこそこの女性に求愛したという。ゲーテが豊富な恋愛経験を積み重ねられたのは、おそらく歳を取ってもどこかに初心な気持ちを忘れなかったからに違いない。

 経験を積むことが人生には重要だ。しかし、本当に豊かな人生とは経験に埋もれただけの人生ではないだろう。

 ふたたび店を始めるようなことがあり、初めての客が来て帰り際に「いい店ですね。また来ます」と言われたときは、二度と来ないことが分かっていても「ありがとうございました」と素直に感謝しよう。かつての経験を活かしながら、初心な気持ちを持続できたらいいな・・・と思うのである。