奇跡とは何か

 私は宗教に疎い人間である。三大宗教と呼ばれる仏教もキリスト教イスラム教も中身は詳しく知らない。仏教に関する書物はほとんど読んだことがない。聖書もコーランも同様である。しかし私は人間であり、一個の人間としてさまざまな現象を考察することはできる。宗教に携わる人間も、宗教に無知な私のような人間も、「人間」を見るという意味では共通基盤に立てるはずである。

 ところで、例えばイエス・キリストはなぜ短期間に多くの人々の心を捉え熱狂的に支持されるまでに至ったのか。おそらくイエスは、貧者や病者や障害者・・・すなわちこの世で苦しんでいる最下層の人々に対し、「あなたたちこそが、神に救われ、神から祝福される」と世間に訴え人々を説き伏せたからではないのか。苦しみを背負ったまま、見捨てられ、忘れ去られるのではない。反対に「虐げられた人々こそがもっとも尊い存在で崇められるべき」とイエスは教えたからだ。

 権力者たちにいつも踏みにじられる人々にとって、じつは絶望のどん底にいる自分たちこそが救われ、さらに人間として重要なのだと指摘され、しかもそれを心の奥底から自覚したならば、「人間や世界」に対するそれまでの見識、すなわち価値観が一変したに違いない。そうなのだ、イエスと同時代を生きた人々にとって「価値観の逆転」という己の心の急激な変化に「奇跡」を感じたのではなかったか。

 手をかざしたり呪文を唱えたりするだけで、病気を治したり裕福にさせたり、ましてや天変地異を起こしたりと、もちろんイエスができたわけではない。そんな絵空事は、どんなに力を持った人間でも実際にできるわけがなく、大昔も、現在も、そして未来にも起こり得ない。

 ルネサンス以降、近代から現代へと「科学技術」の進歩と「新思想」の展開が、数々の迷信や呪縛から多くの人々を解き放った。イエスが生きた時代では、心の変化だけでも相当な影響があっただろうが、もはや価値観の逆転を自覚するだけで人間は留まるものではない。現在は、未来に向かって一人ひとりの人間の力を結集させることで世界を大きく変えることができるようにまでなったのである。

 それでも今後、いつの時代でも、どんな場所からでも、エセ宗教やエセ科学は伝染病のように蔓延するかもしれない。何が本物で、何が偽物なのか? じつは、わたしたちは常に問われているのである。